ツギハギ歩き旅・番外編2
~行橋・別府100キロウォーク②~
青空を背にドローンがホバリングをしている。100キロウォークの記録撮影のために大会運営者が飛ばしているものと思われた。沓(くつ)尾島(おじま)漁港へ架かる長寿(ちょうじゅ)大橋を参加者の列が進んで行く。橋の途中で折り返し、再び海岸沿いの道へ戻るコース設定なので、行き帰りの列が橋の左右に分かれている。ドローンに手を振る人、面識のある参加者に声を掛ける人、景色を見回す人、参加者はそれぞれのペースで歩きながら、思い思いに楽しんでいる。静かに揺れる海面に午後の日差しが舞い下りていた。この後しばらくは海岸沿いのコースを進んで行くことになる。良く晴れた海辺の景色には真夏のギラギラ感はなく、ワシの目には爽やかに映った。しかし気温は真夏ほどではないものの、とても秋のそれとは思えなかった。ゴールは想像したくないほど先である。自らの体調の変化を観察しながら、慎重(しんちょう)に歩き進めて行かなければならない。この日は北九州50キロウォークでの経験を基に立てた、いくつかの方針に従ってウォーキングを進めることにしていた。
先ずは熱中症対策である。50キロウォークではミネラル補給の甘さを痛感することになった。当然、100キロウォークの道中では岩塩タブレットの相応な摂取が必要になると思われる。ただよく考えてみると、ウォーキング中の補給以前の問題も考えられた。そもそも論としてワシはミネラル不足が常態化(じょうたいか)した身体なのではないか、という疑念に思い至ったのである。ワシは日々の晩酌(ばんしゃく)を欠かさない。アルコールをある程度摂取すると、体内のミネラル成分が過剰に排出されるきらいがある。つまりワシが日々ミネラル不足の状態であっても、なんの不思議もないのである。そうであるなら、たくさんの発汗が予想される機会にのみミネラル補給をしても、その不足状態は解消されないということになる。日々サプリメントを利用する等して、ミネラル不足を補うことが必要となる。ただ、そもそも論としての仮説が間違っていれば、話は違ってくる。身体に必要なものではあっても、過剰な摂取は好ましくない。過ぎたるは猶(なお)及(およ)ばざるが如(ごと)し、なのである。とはいえ、そもそも論を簡単に検証する良い方法が思い当たらない。とりあえず、そもそも論は棚上げにしておくことにした。こうした経験や仮説を検討した上で、ワシは当日の朝に自宅を出る前と100キロウォークスタート前に、それぞれ岩塩タブレット一回分の用量を摂取し、その後は給水ポイントやエイドでの摂取を予定して歩き進めて行くことにしたのであった。
次いで前脛(まえすね)を中心とした筋肉疲労対策である。身体の力みによる筋肉各部の不必要な緊張が、過剰な筋肉疲労の原因として考えられた。歩行中は脱力を心掛け、必要最小限の筋力で動くことを意識しなければならない。前脛のある下腿部(かたいぶ)の脱力には特に気を配ることにした。また道中では、少しでも筋肉の疲労を回復させるように努める必要もある。そこでエイド等の設置場所では、時間のロスを気にすることなく身体全体のストレッチを行うことに決めた。加えてオーバーペースによる身体の変調にも留意しなければならない。50キロウォークのときは自分の身体の状態等を確認するために、オーバーペース気味に歩いていた。しかし本番の100キロウォークではそのような無茶はできない。しまなみ海道(かいどう)ウルトラウォーキングでの忘れ物を取りに行くのである。特に序盤は必要以上に速いペースで歩くことのないように、自重(じちょう)を旨(むね)とすることを固く決意した。
こうした方針を念頭に置いて、ワシは海岸沿いのコースを通り抜け、自衛隊基地脇(わき)の公園に設置してある飲料販売ポイントまで自らの身体を運んで来た。スタート地点から約15キロ、身体は問題なく動いている。しかし、これまでワシに立ちはだかってきた壁はまだ先にある。水分、ミネラルの補給と身体のストレッチを十分に行った後、第一チェックポイントのある中津へ向けてリスタートした。
4,000人近い参加者があると、道中の列はそれほど途切れることはない。100キロを12~13時間台で完歩するような人達の周辺は別であるかも知れないが、通常レベルで速く歩く人達も、ゆっくり歩く人達もそれぞれ一定数いるので、道中の列が大きく途切れるようなことは少ないものと思われた。地図確認の手間を取りたくないワシとしては列という道標(みちしるべ)の存在は有難い。道中の各所にはコースの案内表示やボランティアスタッフによる誘導もあるので、安心してウォーキングに集中できそうである。歩道では基本、縦一列、キープレフトで歩くルールになっていた。速歩き組の人はゆっくり組の人の右側から追い越しをすることになる。この際、声を掛けながらの追い越しが推奨(すいしょう)されていた。安全重視で当然の推奨なのであるが、実際に声を掛ける段になると、何となく気が引けた。オヤジがイキって追い越しをしているような印象を持たれたくなかったのである。抜かれる側の大方は何とも思っていないのであろうし、ワシ自身が抜かれる場合も何とも思わない。しかしネガティブな印象を与えるかも知れない、という危惧(きぐ)を払拭(ふっしょく)することはできなかった。それに加えて参加者の列があまり途切れない状態であると、頻繁(ひんぱん)に声を掛け続けなくてはならなくなる可能性もある。理由は様々であったろうが、ワシを含めて道中で声掛け追い越しをしている人を見ることはなかった。ただその分、追い越す方も、追い越される方もそれぞれ前後方向に気を配りながら進んでいる気配が感じられた。参加者の大半は大人である。思いやりと状況判断で安全にウォーキングを楽しむことができれば、それはそれで良いのかも知れない。そんなことを考えていると沿道に給水所が見えてきた。前の飲料販売ポイントからそれほど離れてはいない場所であった。ワシは水の補充と岩塩タブレットの摂取だけ行い、直ぐにコースへ復帰した。
太陽がいつの間にか夕陽になっていた。この時季の夕陽は暮れなずまない。空も、通りも夕景の趣(おもむき)をどんどん濃くしていく。夕陽を背にしていると、何かに急き立てられているような心持ちになってくる。子供の頃、友達と外で遊び呆(ほう)けていて帰宅時間が遅くなると、母親にひどく叱られたものであった。その結果、遊んでいて夕暮れが近づいてくると、そわそわと落ち着かなくなるようになったのである。今でも潜在的な部分のどこかにその感覚が残っているのかも知れない。夕陽が染める空の茜色がその色味をより濃くしてきた。30キロ地点は既に超えていると思われる。普通であれば、中津のチェックポイントまで1時間もかからない。しかし、どうやら普通ではいさせてもらえないようであった。しまなみ海道ウルトラウォーキングから始まった30キロの壁問題が、ワシの行く手に暗雲を漂わせていた。足が攣(つ)りそうな感覚がワシを襲う。やや歩調を緩めて、攣りそうになる足を宥(なだ)めつつ進んで行く。同じペースで歩いて来た周囲の参加者の様子を窺(うかが)う。彼らの足取りはしっかりしている。その表情も余裕たっぷりに見えた。30キロなんてまだまだ序(じょ)の口(くち)でしょ、と言わんばかりの表情である。そんな中、ワシだけがその一団から脱落し、脚のメンテナンス始めたとする。彼らはそんなワシを目の端で捉(とら)え、置き去りにして行くであろう。そして目にした光景には〈年寄りの冷や水〉〈イキりオヤジの末路〉といったタイトルがつけられるに違いない。そのようなこと、断じて受け入れるわけにはいかない。足が攣(つ)りそうになっていることを気取(けど)られないように歩く。しばらくは上手く誤魔化(ごまか)しつつ進んで行けた。しかし具体的な対処もせずに、意地だけで事態を好転させることなどできるはずもない。歩きながら岩塩タブレットを取り出し、ミネラル補給をする。しかし即効性が期待できる対応ではない。足首周辺の状態は悪化の一途をたどる。そして足首の動きをコントロールできなくなりそうになったとき、飲料の自動販売機が目に飛び込んできた。小賢(こざか)しい知恵がひらめく瞬発力はアスリート級である。ジュースを買うために自動販売機の前で立ち止まるのであれば、脱落でない態(てい)で脱落することができる。ここに至るまでの間に、自動販売機で飲料を買っている参加者の姿も散見(さんけん)されていた。日中の暑さを考えると、携行している水分とは別に冷えた飲料を買いたくなったとしても、不自然ではない。これも暑さ対策の一つと考えることもできよう。額の汗を拭(ぬぐ)う素振(そぶ)りを見せつつ、冷えたジュースを飲む。そして、そのついでの態で脚のストレッチを行えば、脚の状態の回復も図ることができる。脚の状態が落ち着いたところでリスタートすれば、鼻で笑われるような事態はなかったことにできる。こうしてワシは、被害妄想をモチーフに書き下ろされたシナリオで三文(さんもん)芝居(しばい)を演じるのであった。
第一チェックポイントである中津(なかつ)中央(ちゅうおう)公園に到着した。日は既にすっかり暮れている。通過チェックを受けた参加者達のヘッドランプの灯が、あちらこちらで揺れる。ワシは配給された梅干しとバナナで栄養補給をした後、ストレッチと休憩ができる場所を探した。座面がやや広いベンチに陣取り、ザックを下ろして入念に全身のストレッチを行う。足裏と下腿(かたい)にはマッサージも施し、疲労で固まっている筋肉を少しでも緩めるように努めた。一通り身体のメンテナンスを終えた後、ベンチで仰向けに寝転がる。垂木(たるき)のような骨組みだけの屋根の向こうに星が見えている。ここ第一チェックポイントまでの36キロの道程を約6時間で歩いて来ていた。時速6キロペースで、予定通りに進んで来ることができている。しかし一方で、第一チェックポイントに到着するあたりから、前脛(まえすね)と足首の違和感という問題が生じていた。脚が痙攣しそうな感覚もまだ残っている。大会参加前から分かっていて、それらに対処すべく対策を講じたにも関わらず、この体(てい)たらくである。この先どう身を処していくのか、考えなければならない。しまなみ海道(かいどう)ウルトラウォーキングでの経験からすると、現状の身体であっても、ゆっくり歩き進めさえすれば、100キロ完歩は可能である。従って現状を大きく悪化させる問題が起こらない限り、この先にリタイヤという選択肢は必要ない。しかし、ゆっくり歩き進めた場合、18時間台での完歩は難しくなるであろう。それでは、しまなみ海道に置いて来た忘れ物を取り戻すことはできなくなる。仮にそれを受け入れるとしても、しまなみ海道ウルトラウォーキングから行橋(ゆくはし)・別府(べっぷ)100キロウォークまでの約1年間、何の準備もしなかったわけではない。それにも関わらず、完歩結果に何の進展もないということは受け入れ難い。体調、脚の状態、残りの行程、強気になれる要素はない。しかし、ここまで時速6キロペースで歩いて来たという事実を無駄にしたくもなかった。そこでワシは決めた。先ず、しまなみ海道の忘れ物はなかったことにする。ここまで時速6キロ、16時間40分での完歩ペースであった。18時間台完歩達成へ向けての余裕は約2時間20分。第一チェックポイント以降のペースダウン、相応の休憩時間確保といったことを考えると、かなり厳しい状況に思えた。少しでも気持ちにはゆとりを持って歩き進めていきたい。越えるべき壁が高いと思えば、意地やプライドなど即座に捨てるのがワシである。もちろん、自慢ではない。次に、新たな目標設定をした。白ゼッケン資格の獲得を目指す。行橋・別府100キロウォークの参加者の間では、白ゼッケン資格の獲得が一つのステータスのようになっている。白ゼッケン資格の条件は20時間内での完歩である。この場合、目標達成へ向けての時間的余裕は約3時間20分である。楽ではなさそうであるが、18時間台完歩の場合に比べれば、結構ハードルが下がった気がした。そうと決まれば、ベンチでごろ寝している場合ではない。時間貯金は大事に使わなくてはならない。休憩を切り上げて、シューズを履き、ザックを背負う。ワシは身体の状態に注意を払いながら、第一チェックポイントを後にした。