ツギハギ歩き旅日記・番外編2~行橋・別府100キロウォーク⑥

歩き旅・番外編

ツギハギ歩き旅・番外編2

~行橋・別府100キロウォーク⑥~

 ようやく別府市に入った。下り坂で脚への衝撃があったが、前を行く白ゼッケンの男性に遅れないように歩を進めて行く。痛みは感知しているが、黙殺する。気持ちは折れていない。進めなくならなければ、それで良かった。普通に進んで行くことができれば、結果はついてくるはずである。日の出はまだであるが、人の表情が分かる程度には明るくなってきていた。沿道のイベントテントから、声援が送られてくる。テント前で何かを配っている様子である。近づくと、満面の笑みを浮かべたスタッフの方が、白っぽい玉のようなものが入ったケースを差し出してきた。

 

「どうぞ!あと少しです。頑張ってください!」

 

差し出された勢いと厚意への感謝の念で、何だか分からないままに中のものを受け取った。手に取って見ると、それがミカンであることが直ぐに分かった。ミカンが皮を剝(む)いた状態で配られていたのである。ゴール間近の参加者が、脚を止めることなく食べられるように配慮してのことであろう。きめ細かな心遣いがとても有難かった。しかし落ち着いて考えてみると、それを歩きながら食べることが躊躇(ためら)われた。ワシは少し前にお腹の不調でトイレに寄ったばかりである。そんな状況でミカンをお腹に入れて良いものか、逡巡(しゅんじゅん)したのである。お腹の状態はもう問題がないように思える。明け方の気温は心地よい程度のものと思われたが、いくぶん汗はかいていた。それもあって、水分とビタミンの補給にジューシーなミカンを食べたい、という欲求もなくはなかった。しかしゴールを目前にして身体に変調をきたすリスクは避けたかった。ゴール後に食べれば良いのであろうが、みかんの皮は既に剝(む)いてある。手持ちにしたり、ポケットやザックに入れておいたりしたら、どのような惨事が待っているか、分かったものではない。食べる果実の部分を直接手にしているので、人様に差し上げるわけにもいかない。おそらく99パーセント以上の確率で喜ばれる心遣いが、ワシには裏目に出ているように思われた。さっきの声援が耳に甦(よみがえ)ってくる。人の厚意を無下(むげ)にすることはできない。お腹の問題は解決したばかりであるので、逆にリスクは少ないと考えられないこともない。身体の欲求があるということは、そのときそれが身体に必要とされているということである。従って体調に悪影響が出るリスクも、少ないと考えて差し支えない、と思われた。しまなみ海道での失敗が頭を少し過(よぎ)ったが、人様からの温(あたた)かいご厚意に応えて頑張ろうというのである。運命の女神様も温かく見守ってくれるであろう、と考えた。ワシはみかんを頬張(ほおば)り、さっぱりとした甘さの果汁を堪能(たんのう)した。

漁船が鏡面のように凪(な)いだ水面を撫でるように進んで行く。その後方に広がっていく曳(ひ)き波はたおやかであった。朝ぼらけの湾内には穏やかな雰囲気が漂っている。そんな海とは対照的に、ワシの体内にはさざ波が立ち始めていた。ワシの女神様は温かく見守っていてはくれなかったようである。スタートしてからここまでの道程で、それなりに酷(ひど)い目に遭(あ)ってきているのである。ゴールまで残り5キロを切ったところで不調の追加はないであろう。確かに、こうなるリスクを認識していたにも関わらず、希望的観測によってミカンを食べたのはワシである。全ては自己責任であり、自分以外の者を責めるのは、お門違(かどちが)いも甚(はなは)だしい。それが架空の存在である運命の女神様であっても同じである。しかし脚の痛みを押してゴールを目指しているのである。もう少し優しい運命が用意されていても良いであろう。ただ、お腹の状態はのっぴきならない程度までには至っていない。それを物凄(ものすご)くささやかな優しさと考えて納得するしかない。お腹の具合は寄せては返す波のように一進一退を繰り返す。今しがた日の出を迎えた別府(べっぷ)湾のオレンジロードが、悲しい程に美しく見えた。

残り5キロ地点からは残りの距離を示す表示板が置かれていた。そして現在歩いている公園前の通りには「あと3キロ」の表示板が設置してあった。公園であれば、トイレがあると思われるが、ここにきてタイムロスのリスクを負うつもりはなかった。お腹の状態は不安定ではあるが、一定時間は落ち着いたりもしている。ゴールまで3キロ、ワシがついて行っている白ゼッケン男性のペースであれば、30分もかからないように思えた。お腹の状態が急転して、のっぴきならない程度にまで悪化する気配もない。万一悪化したとしても、30分程度であれば、持ち堪(こた)えることもできよう。いくらかの不安とであれば、手をつないで一緒にゴールすることも厭(いと)わないつもりであった。それにお腹の不安に気を取られている間は、脚の痛みから意識が逸(そ)れるので、悪いことばかりではなかった。身体の観察をしているうちに、通りは市街地へと入っていった。

早朝の白(しら)んだ空に包まれている通りでは、建物、看板、樹木等々、目に入ってくるものの色が、微妙にくすんだ感じがして落ち着いて見える。市街地とは言え、朝の早い時間帯であるので、行き交う車はそう多くない。人通りも疎(まば)らで、通りで目にする人のほとんどはゼッケンを装着していた。完歩はもう見えている。淡々と足を運んでいる人、ラストスパートをかける人、それぞれがそれぞれの目標に沿うように進んでいるものと思われた。そんな中、ワシのペースメーカーである白ゼッケン男性のペースが上がった。ラストスパートに入った模様である。脚もお腹も変わらず不調な状態であったが、ワシもそのラストスパートに乗ることにした。ゴールまで2キロの地点は既に通過していた。淡々と歩いている人達を抜きながら、どんどん進んで行く。そうしているうちに妙なことに気がついた。抜いて来た人達との差があまり変わっていないのである。それもそのはずであった。信号待ち後にリスタート、結構なペースで通りを進んで行くが、そう離れてはいない次の交差点で再び赤信号に引っかかる。そして信号待ちの間に抜いて来た人達に追いつかれる。こんな状況が繰り返されていたのであった。ワシは信号待ちをしながら、勝手にペースメーカーにしていた白ゼッケン男性に話しかけてみた。

 

「信号に引っかかりまくりじゃあ、思うように進めませんね…」

「ここ、いつもそうなんですよ…毎年、ホント腹立ちますよ」

 

信号が青に変わり、リスタートする。男性は先程までと変わらないペースで歩き始めた。ワシも行きがかり上それに追随(ついずい)する。

 

(ご存じやったのなら、間違っとるんやないですかね…ラストスパートかけるタイミング…)

 

小さなキッカケで押し寄せる徒労感に疲労感、そして気がつく身体の不快感、感動のゴールが目の前であることを棒読みで自分に言い聞かせながら、リベンジの舞台の幕引きに猛進(もうしん)するのであった。

 

体育館の中は参加者の手荷物であふれていた。ワシはスタート前に運営者に預けておいた手荷物をそこで回収した。ゴールである的(まと)が浜(はま)公園の隣にある小学校の体育館では、ボランティアスタッフが完歩、リタイヤして来た参加者のサポートをしていた。参加者達は、仮眠をする者、抑え気味の声で談笑する者、それぞれが緊張感から解き放たれて、思い思いに過ごしていた。ワシは体育館の入口付近で帰り支度を始めていた。午前7時より前に的が浜公園に到着したワシのネットタイムは、余裕のある18時間台であった。つまり、ワシのリベンジは成ったのである。本来であれば、スタート前の予定通りに別府(べっぷ)温泉で汗を流し、意気揚々(ようよう)と帰途につくところである。しかしワシは荷物の整理を終えたら、タクシーで別府駅に向かい、そのまま電車で帰ることにした。早朝にゴールできたこともあって、発汗量は多くなかった。速乾機能に優れたウェアは既に乾きつつある。着替えずとも、公共の交通機関で人様の迷惑になることはないと思われた。お腹の調子は落ち着いてきているし、脚の痛みも許容範囲であった。そして何よりも、帰宅するまでは靴下を脱いで己の足と対面したくなかったのであった。ワシはゴール前、10キロ程度の道程でちょっぴり無茶をした。そのせいであろうか、趾(あしゆび)の爪に嫌な違和感があった。もしかすると、どれか一つくらい剝(は)がれかけているかも知れない、と思った。もしそうなっていた場合、それを現実に確認してしまうと精神的に歩けなくなってしまうような気がしたのである。現実に見なければ、趾(あしゆび)には何の問題もないと信じて行動することも可能である。お得意の現実逃避と希望的観測の合わせ技で、平穏な電車での帰路へ向けて準備を進めていった。

 

日豊(にっぽう)本線の車窓から、まだ夢の中を歩いている人々の姿が見えた。それが悪夢であるか、否かは分からないが、早く覚めたい夢であることは間違いないように思われる。ゴールまであと一踏ん張りである。それぞれのゼッケンにエールを送る。鈍行列車の走行音を聴きながら、別府(べっぷ)湾の景色を眺める。ワシが歩きながら見たそれは夜に覆われていた。

 

(海も空も青いのぉ…)

 

普通のことが心に沁(し)みてくる。日豊本線は行橋・別府100キロウォークのコースに沿うように走っている。だから、目の前に流れていく風景はワシが歩いた道のものであろう。そのとき、そこは闇に閉ざされたモノクロの世界でしかなかった。しかるに今は、同じ世界に光あふれる空間が色彩豊かに表現されている。光と闇が織りなす世界のコントラストが、それぞれによって表現される風景を際立たせる。いずれの風景であっても、感動すべきものは普通の世界である。普通の世界をしっかりと感じ取る能力を感受性というのであろう。旅情に触発されて、感受性の閾値(いきち)が変化する。空、海、山、川、道、人…流れる風景を構成する、あらゆる存在に趣を覚えた。心の中に小さな幸せがたくさん集まってきているような感覚であった。

 

(ワシはこのために歩いたんかも知れん…)

断じて違う。ひとときの幸せと100キロ歩く労力がイコールで結ばれるはずはない。割に合わないにも程がある。未だ非日常の旅路にあるワシの戯言(たわごと)は、後に日常へ戻ったワシに一蹴(いっしゅう)されることになるであろう。しかし、旅路で列車に揺られている間はそれで良い。コトンコトン、コトンコトン、列車の走行音が静かな車内にこだまする。どこかの停車駅で入り込んできた金木犀(きんもくせい)の香りが、心持ちをオレンジ色に染めた。この日ワシは何十年かぶりに、列車に揺られながら、うたた寝をした。

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