九州ツギハギ歩き旅
１．自宅～小倉(こくら)駅
未明の町はまだ寝息を立てている。
行き交う車もない濃紺の通りを、ワシはまっしぐらに進んで行く。
そこは日常の生活を営んでいる空間で、物珍しさなど皆無であるが、ワシの気持ちも、足取りも弾んでいた。
何気ない日々を、何気なく過ごしてきた町、この町からワシの旅は始まる。
ワシの旅、それは九州を歩いて一周する旅である。
ただ、ワシには一度の旅に何日もかけられるほどの金銭的、時間的余裕はない。そこで、一回の歩き旅のゴール地点を駅にして、そこを次回のスタート地点とする旅を繰り返すことにした。歩き旅をつなげて、九州一周を成し遂げることを計画したのである。つまり、「九州一周ツギハギの歩き旅」である。
この日は自宅を出発し、関門海峡の海底トンネル・関門トンネル人道を通って九州へ渡り、小倉駅をゴールとするつもりであった。以前にも歩いた経験のあるルートでもあるので、初回としては無難な計画と思われる。
（知っとるとこは、ちゃっちゃと済ませて…先がまた楽しみじゃ）
ワシは、若い頃から知らない街を歩くのが好きであった。
それはウィンドーショッピングをしたり、食べ歩きをしたりといったことではない。知らない街の様子を見て、何かを感じ、様々な想像を巡らせる。そうしながら、時間の許す限り、どこまでも歩いていく。目的も、目的地も、行き当たりばったりの街歩きであった。
当時はスマホなどなかったので、ポケットサイズの地図帳を携行していた。
歩きつつ、気まぐれに目的地を設定し、地図で大まかな方向だけ確認する。その方向へ向けて気の向くままに道を選択して歩き進めて行く。
時にはそのツケとして道に迷う。
同じ道を引き返すのが嫌いだったので、地図帳を見ながら同じ道を引き返さない方向で軌道修正する。こうした失敗を繰り返しながら、歪な経路をたどって何とか目的地にたどり着く。
こんなアホな暇人の所業としか思われないことを嬉々としてやっていたのである。
正直、何が面白いのか、他人を納得させるだけの言葉や理屈は持ち合わせてはいなかった。
しかし、無計画な街歩きを想像するだけでワクワクした。
行き当たりばったりの偶然により、何らかの光景に出会う。それが楽しくて仕方がなかった。
今回の旅は、その延長線上にあった。
もちろん、九州を一周するという目的があるので、全くの無計画というわけにはいかない。しかし知らない場所を歩いて、偶然が連れて来る何かと出会う－相も変わらずのモチベーションに胸をふくらませていた。
（どうなることやら）
自然と頬が緩む。
朝まだきのしじまを縫って、バイクのエンジン音が断続的に聞こえてきた。朝刊を配達しているのであろう。
昔の本通りを照らす街灯の下を、ワシの影が勢い良くよく通過して行く。眠りから覚めやらぬ町の家々は影絵のように見えている。
ワシは、ぼんやりとした灯りと影の世界を通り抜けて行くのであった。
関門海峡を左手に見ながら国道を進む。
視界に広がる黎明の海峡は薄曇りの空に覆われていた。
前日は概ね晴れていたので、関門海峡周辺は海峡花火大会の会場となっていたはずであった。
空をポンッと叩くような爆音と共に光の花が夜空に咲き乱れる。花火の光が鈍色の海に、ぼんやりと溶けこんでいく。
そんな美しい夏の風物詩の会場が、今は薄墨色の海に青味のある灰色の空といった景色に塗り替えられている。
遠くに見える関門橋を取り巻くその風景が、俗に言う、「祭りのあと」の状態を如実に表現しているように感じられた。
（物寂しい感じやな…）
華やかな空気が過ぎ去った後の虚脱感に気勢をそがれるような気がした。
足取りが鈍りそうになる。
（ワシの祭りはこれからじゃ）
雰囲気に流されて歩くペースが落ちないように、気持ちに鞭を入れる。
空模様からすると、数時間後には雨になる可能性が十分あるように思われた。
折りたたみ傘の用意はあったが、歩いての移動であることを考えると、雨に降られたくはなかった。
普通に歩いて行けば、昼前には小倉駅に余裕をもって到着できるはずである。しかし、午後まで雨にならないという保証などない。
ワシは速めの歩調を維持したまま、海峡沿いの通りを進んで行った。
エレベーターで地階に降り、関門トンネル人道に入る。
そこが海底トンネルだと思うと、何となく息苦しいような心持ちになる。海底の更に下にあるトンネルなのである。何回か利用したことはあるが、閉塞感を拭えない。
（ワシの人生と一緒やん）
＜分かっているなら、何とかしたまえ＞
軽口をたたいて気を紛らせつつ、緩やかな下り坂を進んで行く。
雨天時には、ここをジョギングやウォーキングのコースとして利用する人達もいるようである。雰囲気に慣れてしまえば、どうということはないのであろう。
（やけど、テロやら火事やらが起きたら、逃げられんやん）
＜タイムリーに余計な想像を巡らせるのは止めて頂きたい＞
危機管理という意味では、想像は大事である。海底トンネルでテロ事件や火災に巻き込まれる可能性は皆無ではない。しかし、そうした可能性に捉われていては何もできなくなる。
（まあ、生きることに100％の保障はないんやし…）
天運に任せるしかないことを、あれこれ考えていても、仕方がない。心身共に疲れるだけである。
ただ、万一に備えて、避難経路等の確認はしておくべきとも思われる。それは必要最低限の危機管理であろう。
（いやいや…今更気付いても…）
トンネルの真っ只中、目視できる範囲に避難経路等の掲示はなかった。何も起こらないことを信じて進むしかない。
（今度、確かめちょこう）
＜いつも次からちゃんとする、やな＞
海底の県境を越え、緩やかな上り坂を進んで行く。門司側のエレベーターホールが近づいてくる。
少しホッとした気持ちになる。
閉所恐怖症ではないのであるが、閉じ込められた感のある場所は苦手である。
とりあえず、空が見たかった。曇り空であろうが、この際、それで構わない。
上り坂ではあったが、心持ちペースを上げて進んで行った。
門司側出入口から通りに出ると、曇り空に関門橋が横たわっていた。
下関方面へ真っ直ぐに延びる橋梁は、そこが三次元空間であることを際立たせる。
橋の下をくぐり、海峡沿いの通りを抜けて行く。
散歩する人がいても良さそうな時間帯であるが、そうした人の姿を目にすることはなかった。
住宅街に入り、ふと、マンションのエントランスに目をやる。ナイトウェアにクロックスサンダルといった姿の女性が見えた。
早朝の通りが、ようやく目覚め始めたようである。
この時点で、この日の行程の半分以上を消化していた。
このまま順調に行けば、曇り気味のお天気もあって、大して暑い思いをすることなく初回の歩き旅を締めくくることができそうである。
ただ、空模様はまだ雨の気配を濃く感じさせるようなものではない。
行程の消化状況、ゴール到着時間の見通し等を考えると、道草を食いながら、ぶらぶら街歩きをしたい気持ちもあった。
興味を惹かれる路地に入ってみたり、道中の観光スポットのような場所に立ち寄ってみたりして、非日常を楽しむ感覚は多くの人に共感してもらえるものと思われる。
御多分にもれず、ワシも寄り道が大好きであった。
しかし、今回の旅は歩いて九州一周すること自体を目的としている。
正直、本当にその目的を達成できるのか、自身に対する不安は拭えていなかった。
計画段階の自己分析では、体力、気力、経済力、飽きっぽい性格、欠片もない根性…考えれば考えるほど、不安要素ばかりが目に付いた。
（まあ、やってみんにゃ、何もわからん）
＜勢いは良いが、説得力は感じられない＞
しかし、結局ワシは旅立ってしまった。
あれこれ思案を巡らせてみるが、結局は思いつきと勢いで行動する。ワシの悪い癖である。
とはいえ、始めてしまったからには何とか目的を達成したい。そこでワシは、道をつなげることだけに集中して歩くことを旅の基本方針とした。
物見遊山の旅とは一線を画さなければならない。
今日の道中にも門司港レトロといった魅力的な観光スポットがあるが、それには目もくれずに行程をこなすことにしていた。
旅の状況に余裕があるからといって、その方針をまげる積もりはなかった。
ワシは迷いのない足取りで通りを進んで行く。お盆期間の街の朝は穏やかな空気に包まれていた。
関門海峡を右手に見ながら、国道3号線を進む。
通りには、住宅、商店、公共施設等が混在している。それらの佇まいが、遠い昭和の日常を思い起こさせる。
その頃は地方にもそれなりに人口があり、町には活気もあった。子供もたくさんいたので、地域社会は賑やかで明るい雰囲気に包まれていた。
そんな昭和の町の空気感とくすんだ曇天のコントラストが、通り沿いにある町の現状をうら寂しく感じさせた。
前方の空を少し見遣る。
（だいぶ黒くなってきたのぉ…）
雲の様子が下関で見たそれとは明らかに違ってきている。その厚みも増してきていた。
ワシは手のひらサイズに収まる、とてもコンパクトな折りたたみ傘しか持っていない。本降りになると、心許ない装備である。
できることなら、雨に降られる前に小倉駅にたどり着いておきたい。
古の町に思いをはせ、その情感に浸っている場合ではない。
行程の残りは6～7キロ程度と思われた。急いでも、1時間はかかる距離である。
（雨だれ小僧さん、もうしばらく雲でええ子にしとってな）
通りは片側2車線の道路となり、商業施設やビルが多い街並みに様相を変えてきていた。
願い虚しく雨が降り出したら、商業施設等の軒先で雨宿りをしよう、と考えながら、ワシは脚を速めるのであった。
汗ばんだ肌が風を感知した。
体感的には心地よかったが、ワシの心には嫌な予感しかなかった。
そして、いくらか歩き進めた所で予感は現実の光景となった。雨である。
門司駅前を通過して1キロも歩いていないであろう。ゴールの小倉駅まで、まだ5キロくらいの道程が残されているものと思われる。
（こりゃあ、いけん）
＜日頃の行いですな＞
ポツポツと降り始めた雨は、間もなくその勢いを一気に強めた。
とりあえず、近くにあった屋根のあるバス停に駆け込む。
行き交う車のワイパーが慌てた様子で右往左往している。
向かいの病院入口に駆け込んでいく人が数人見られたが、ワシのいるバス停付近に人影はなかった。
ワシが用意していたコンパクトな折りたたみ傘では、目の前で降りしきる雨を防ぎ切れる気がしない。
また、この降り方では傘が雨を遮ってくれたとしても、雨によるシューズの浸水が確実であると思われた。
ワシはしばらくその場で雨脚が弱まるのを待つことにした。
どれくらいの時間が経ったであろうか。雨脚は一向に衰える様子を見せない。
車のタイヤが奏でる水飛沫の音は、重厚感を増していた。
歩道に弾ける雨だれを見ていると、子供の頃に聴いた曲が耳に蘇ってきた。
雨だれ小僧が空から降ってくる様子を描いた曲で、とても可愛らしい曲であった。子供番組で歌われていたものである。
原曲は「雨にぬれても」という曲で、邦題を「明日に向かって撃て」というアメリカ映画の挿入曲であった。映画は、ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードがアウトローコンビを演じた西部劇である。
ブッチ・キャシディ（ポール・ニューマン）がサンダンス・キッド（ロバート・レッドフォード）の恋人、エッタ・グレース（キャサリン・ロス）と当時の先端的な乗り物である自転車に乗って牧場デートをするシーンで流れた曲であった。
原曲は軽快でコミカルな曲調であったのに対し、日本語版カバーバージョンの方はしっとりとした感傷的な曲調であった。
雰囲気が違うので、伝わってくる情感は違うが、どちらのバージョンも大好きな曲である。
（メロディー自体がええもんな）
アスファルトでは次から次へと雨だれが弾けている。
脳内BGMが原曲バージョンにシフトした。
その歌詞にあるように、ワシもお天道様が仕事をサボっていることを詰りたい気分になってくる。
スマホで時刻を確認する。もう1時間以上、雨宿りをしていると思われた。
当初に比べれば、少し雨脚が弱まってきたように見える。しかし、歩きを妨げない程度の小降りには程遠い状態であった。
いつまでこの状態が続くのか、先が読めない状況では、どこかで見切りをつけて決断するしかない。
ザックのハーネスに腕を通し、身体の前面でその本体を抱きかかえる。葉っぱの傘程度の折りたたみ傘を広げて、再び小倉駅へ向けてワシは歩き出した。
お昼にはまだ時間があるが、小倉駅にはそれなりの人出があった。
雨宿りのバス停からここまで、雨は降り方にメリハリをつけながらも、止むことはなかった。
そんな中、葉っぱの傘程度の折りたたみ傘は、その役割を十二分に果たしてくれた。ズボンの裾が濡れてしまっていたが、そこ以外の衣服やザックは問題ない状態である。
ただ、恐れていた通り、シューズの浸水は防げなかった。
（やっぱ、気持ち悪いのぉ）
一歩一歩、足を踏み出す度に濡れたスポンジを踏みつけているような音と感覚があった。家へ帰るまで、これらと付き合わなくてはならない。
深いため息をつく。
最初の歩き旅を完遂したというのに、気分が上がってこない。
（日頃の行いかの…）
＜そうだね＞
ワシは切符を購入し、ざわついている改札を抜けて行った。
電車に揺られながら、車窓から外を眺める。
その日ワシが歩いた通りが見えた。そこは雨の薄い膜に包まれている。
ワシは座席に身を預け、流れていくぼやけた風景を見るともなしに見ながら、「明日に向かって撃て」のワンシーンを思い浮かべていた。
列車強盗に失敗して追っ手に追われているブッチ（ポール・ニューマン）が、岩場にあった大きな窪みの水溜りで水浴びをするというシーンである。
衣服も靴も身に着けたまま水に浸かり、まるでバスタブにでも浸かっているような仕草をしていた。
（どういう神経をしとるんやろう…）
そんな格好で水に浸かること自体が理解できない。
暑さしのぎの水浴びであったのなら、せめてパンイチであろう。
衣服はびちゃびちゃ、靴はじゅくじゅくではないか。
しかも靴は革靴であったと記憶している。水はけも悪い上に乾きにくい。じゅくじゅくの靴で過ごす気持ち悪さを想像できなかったものか。
単調な走行音が響く車内で、ワシは濡れたランニングシューズを見つめる。
（生乾きは臭いし、雑菌も……）
的外れな、八つ当たり的映画批評は続く。
「次は門司…門司…」
微かに揺れる中刷り広告の向こうで、車内放送が淡々と流れていた。
