ツギハギ歩き旅・番外編1
~しまなみ海道ウルトラウォーキング②~
尾道(おのみち)市民センターに着くと、緑の芝生に大きなスタートゲートが設置されていた。受付けはまだ始まっていないようであった。とりあえず、空調の効いた市民センターに入り、ウォーキングに携行するザックを容量の大きなザックから取り出すことにした。ゴール後に必要となる荷物はそのまま大きいザックに残しておいて、受付け後に運営者に預けるつもりであった。手荷物は一つに限りゴール地点まで運んでもらえることになっているのである。設置されているベンチに背負っていたザックを降ろす。開放された背中の汗がひんやりと感じられた。ここまで歩く間に気温がかなり上昇してきていた。
尾道市街で災難に遭(あ)った後、尾道大橋の狭い歩道を、左手下方に広がる海面を努めて見ないようにしながら進み、橋を渡り切った先にあったトイレ休憩所に立ち寄った。自動販売機で飲料水2本を購入し、トイレの個室でシューズの洗浄をする。十分な水とトイレットペーパーで被害の痕跡(こんせき)を払拭(ふっしょく)することはできた。ただ見た目に分からない程度になったものの、臭いはまだなんとなく感じられるような気がする。しかし現状可能な災難のリカバリーができたことで、幾分(いくぶん)、気持ちは収まってきていた。気を取り直してスタート地点へ向かい始めると、次第に気分も晴れていった。気分に比例して歩くスピードも上がり、気温の上昇も手伝って、市民センターへ着いた頃にはかなりの汗をかいていたのであった。
スタートゲート近くに設置されているテントで参加受付けが始まっていた。受付けを待つ参加者の列に並びながら、携行する荷物の最終チェックをしていると、愛用していたキャップ帽を出していないことに気づいた。とりあえず受付けを済ませてゼッケン等を受け取り、市民センター館内へ戻って運営者に預けるザックの中身を確認する。
(おかしいのぉ…)
ザックの中身を全て出して見たのだが、キャップ帽がないのである。ワシは日(ひ)射(ざ)しの強い日以外は帽子を被(かぶ)らない。しかし、まだまだ夏の暑さが続く予報であったため、ワシはキャップ帽を被って自宅を出たのである。ところが曇り空の朝で日射しも、体感的な暑さもない。最寄り駅に着いて電車待ちをしている時にキャップ帽をザックに入れておくことにした…はずであった。
(あーっ⁉)
キャップ帽はジッパーのついた収納部には入れていない。尾道(おのみち)駅に着く頃には日射しが強くなっている可能性も考えられた。その場合に備えて、ザックの前面にある簡易ポケットにキャップ帽を差し込んだのであった。そして今現在、そのポケットには何も入っていない。即ち、自宅最寄り駅からここに至るまでの道中で、何らかの拍子(ひょうし)に落としてしまったということになる。長年愛用していたものだけに、なかなか気持ちの整理がつかない。歩いてきた道程を引き返して探すという選択肢もある。しかしイベントのスタート時間まで1時間と少しである。どのあたりで落としたのか、見当もつかない。落としたキャップ帽が引き返せる範囲で見つかる保証もない。そんな状況からすると、キャップ帽は諦めて他の選択肢を考えるべきであった。愛用キャップ帽の喪失(そうしつ)、市街での悲劇のカウンターパンチに続く残念なボディブローで、ワシはしばし立ち上がれずにいた。これから100キロ歩くのである。イベントはまだスタートすらしていないのである。それなのに、何故(なぜ)ワシの心がこんなに疲弊(ひへい)しなくてはならない。ワシが何をしたというのか。偶然が悲しい奇跡を呼び、次いで運命の悪戯(いたずら)がワシの財産を掠(かす)める。本(もと)を正せば、結果回避の可能性はあった。その点からすれば、自爆によるものといえよう。しかし、運命がほんの少しだけ好意的に働いてくれるだけで、全てが何の問題もなく運んだはずなのだ。宝くじの当選をお願いしているわけではないのである。イベントのスタート会場につつがなく到着したかった、贅沢(ぜいたく)な望みではあるまい。とはいえ今更、現実に起きてしまったことに抗(あらが)おうとしたところで何も変わることはない。受け入れて前に進むしかない。幸いにも、市民センターの向かいには衣料品店があった。ゴール地点へ運んでもらう手荷物を運営者に預けた後、衣料品店に向かうことにした。
日(ひ)射(ざ)しから頭部を守ってくれる、ありきたりなものを求めて入店したのであるが、目に入ってくる帽子はジーンズ生地にビーズ刺繡(ししゅう)があしらわれたものであったり、ひらひらのリボンがついたUVカット帽子であったり、お洒落感(しゃれかん)あふれる代物(しろもの)ばかりであった。ウォーキング中に日射しを避けるということであれば、そうしたお洒落帽でも事足(ことた)りる。しかし、ワシは機能性第一のスポーツウェアに身を包んでいる。そんなワシがお洒落帽で歩けば、微妙な間違いであるが故(ゆえ)に、見て見ぬ振りをされる仮装行進となってしまう。購入は諦めて、タオルを頭に巻いて帽子代わりにしようと考え始めた頃、店舗の隅にあるワゴンに目が留(と)まった。見切り商品と思われるものが載せられているようである。積まれた商品を探ってみると、有り難いほどに何の変哲(へんてつ)もないハット帽が出てきた。値札を確認すると、定価2,000円が半額となっている。即座に購入を決め、レジに向かった。
「只今(ただいま)のお時間、タイムセールで半額となります!」
半額の商品を更に半額にして売ってくれるというのである。見舞われた不幸に見合わぬ小さな幸せ。それでもワシには、微笑む女性店員さんの背景が煌(きら)めきに包まれて見えた。