ツギハギ歩き旅・番外編1
~しまなみ海道ウルトラウォーキング③~
大会はウェーブスタートで始まった。参加者を複数グループに分けてスタートさせる方式である。お昼を過ぎ、気温はぐんぐん上昇している。30℃を超えたのではないか、と思われた。ワシは遅いグループでのスタートであった。前方には、仲間と話をしたり、街並みの雰囲気を楽しんだりして歩いている人々がたくさんいる。ワシは今回の100キロコースの踏破(とうは)タイムの目標を18時間台にしようと考えていた。これまでの歩き旅では、歩く速度を平均時速6キロとして行程計画を立てていた。これを基礎にエイド等での休憩も考慮して、18時間台でゴールできたらいいな、と考えたのである。経験的には決して無理な計画ではない。ただ100キロの行程を歩くことが未知の領域である事を考えると、体力に余裕がある状態の時に速いペースで歩いて、後々に時間的余裕を残しておきたかった。ワシは前を行く人々の邪魔をしないように気をつけながら、その集団を次々に追い越して行った。
市街地を抜けると、向島(むかいしま)と対岸の島に挟まれた海が水道のように延びていた。この辺りまで来ると、参加者の姿も疎(まば)らになってきている。体感的に快適とは言い難い気温になっていたが、久しぶりの歩き旅の高揚感(こうようかん)がワシの背中を押していた。赤色の向島(むかいしま)大橋(おおはし)を頭上に見ながら歩を進めていくと、海が次第に開けてきた。右前方に広がる瀬戸内海(せとないかい)は、波音すら聴こえてきていないのではないか、と思うくらい静かであった。ギラギラしてきた日(ひ)射(ざ)しを穏やかにくるんで、キラキラとした光を湛(たた)えて揺れていた。
因島(いんのしま)大橋(おおはし)が眼前に迫ってくる。ワシと同じようにゴール時間の目標を設定しているのか、参加者ゼッケンをつけた若い男性が軽快な足取りで歩いていた。わしはその横をすり抜け、因島大橋の上り口へ向かう。しばらく行くと、勾配(こうばい)のかなりきつい斜面に、登山道で見るような階段が設置してあるのが見えてくる。
(あれを上るのは、けっこうきつそうやな)
とはいえスタートしてから、まだそれ程の距離を歩いた訳ではない。体力は十分であった。急勾配(きゅうこうばい)もなんのその、階段を力強く上り始めた。上り始めには階段の先の方まで見えていなかったので、階段を上るにしては少しだけオーバーペース気味である。どのみちキツいのであれば、早く上り切ってしまおうと考えて、どんどん上って行った。しかし思った以上に長い階段で、さすがに疲労感が顔を覗(のぞ)かせる。ペースを緩めて少し息を入れたくなった。一旦(いったん)止まって息をつき、ふと後方に目をやった。ものすごい勢いで上ってくる人が目に入る。先程、橋の上り口付近で抜いてきた男性であった。ワシに抜かれて闘争心に火が点いたのであろうか、その表情を見ることはできなかったが、身体全体から前方の獲物を捕えようとする闘志があふれ出ていた。2人の人間が並んで上るには、やや手狭な階段である。彼が上ってくるのを待って先を譲り、改めてゆっくり上り始めよう、と考えたワシであった。彼の姿がどんどん近づいてくる。その息遣いが聴こえてきたような気がした。その刹那(せつな)である。ワシは階段を猛然と上り始めてしまった。
(アホかー⁈なにやっとるんじゃ!!)
ワシの魂がワシの弱腰を許してはくれなかった。後方から来た速い人に抜かれるのはいい。ワシが目指すのは速歩きチャンピオンではない。しかし体調その他に問題はないのに、一度抜いた人から抜き返されるなどということは許容できない。歩き旅を重ねてきた人間の矜持(きょうじ)の問題である。2人の死闘は、その距離が開くことも縮まることもなく続いた。そうしている内にワシが橋の袂(たもと)へ上り着いた。若い者を相手に年寄りの冷や水で張り合ってボロボロになっていた。通常なら、そこで腰を屈(かが)めるようにして息をつき、呼吸を整えたいところである。しかし張り合ってしまった手前、ボロボロな自分の状態を相手に気取(けど)られたくなかった。まだまだ余力のある態(てい)で橋を渡った後、地図でコース確認する振りをして休息を取る。冷静になれば、どうでも良いと思われるストーリーに則って自らを鞭打(むちう)つワシがいた。こうなると、矜持(きょうじ)というよりは意固地(いこじ)といった方が適当であろう。後方の足音が遠退(とおの)いていくまで、ワシは前だけを見つめて歩き続けた。こうしてワシの思い出アルバムに、因島(いんのしま)大橋(おおはし)からのオーシャンビューがラインナップされることがなくなったのであった。
遠くに生(い)口(くち)橋(ばし)の姿が見えてきた。最初のエイドがもう近い。スタートしてから2時間が経過しようとしている。気温は30℃を優に超えていると思われる。いくら汗をかいても身体の火照(ほて)りが解消されないように感じられた。ザックのショルダーハーネスにある水筒用ポケットを探り、入れてあるソフトフラスクに口をつけて水分補給をする。次いでペットボトルを取り出し、塩水でミネラル補給も行った。通常の水の他に塩水を携行していることには理由があった。このイベントに参加するにあたって、本番前の8月に長距離のウォーキングを行った。直近の歩き旅からは既に5年が経過していたし、30℃を超える日中のウォーキングを体感しておきたくもあったのである。この予行演習では、当初50キロ程度のウォーキングを計画していた。しかし行程を30キロ程度こなしたところで足が攣(つ)りそうになり、そこでウォーキングを中止した。熱中症のリスクが考えられたからである。水分やミネラル補給が十分でなかったことによるものと考えられた。この反省を踏まえて、本番は普通の水の他にミネラル成分を多く含む塩を溶かした塩水も携行することにしたのである。初めてのウルトラウォーキング、未知の世界で何があるか、あまり想像がつかない。とりあえず考え得る対策をこまめに実行しつつ、完歩を目指すつもりであった。
第一エイドは海辺のコンビニに設置されていた。何人かの参加者が店舗付近で休息を取っている。駐車場入り口に設けられたテント前で通過チェックを受けた後、テントで水分の補充をしていると、係りの女性が軽食を勧(すす)めてくれた。しかしワシは歩き旅の道中、固形物をあまり食べないようにしている。消化にエネルギーを奪われたり、消化不良等で体に変調を来たしたりしないようにするためであった。
「まだ大丈夫です」
「やったら、ガリガリ君でも買(こ)うたらええよ」
(んっ⁉)
ガリガリ君―ワシが子供の頃から発売されているポピュラーな氷菓である。かき氷が薄いアイスキャンディーの膜(まく)に包まれている。懐かしさと涼しさが手をつないで現れた。それぞれがワシの手を取り、笑顔でコンビニへ誘(いざな)おうとする。灼熱(しゃくねつ)の太陽に晒(さら)され続けてきたワシである。火照(ほて)った身体を持て余していたのである。妖精達に無力化されたのもやむを得ないであろう。定番のガリガリ君ソーダ味を購入し、店先で貪(むさぼ)るように完食する。そうしてワシはロクに休息もとらず、ある種の背徳感(はいとくかん)を振り払うように第一エイドを後にしたのであった。