ツギハギ歩き旅日記・番外編1~しまなみ海道ウルトラウォーキング⑧

歩き旅・番外編

ツギハギ歩き旅・番外編1

~しまなみ海道ウルトラウォーキング⑧~

 

まだ柔らかい朝日を浴びながら、来島(くるしま)海峡(かいきょう)大橋(おおはし)を行く。眼下に広がるオーシャンビューを目にすると、吸い込まれそうな感覚に襲われる。美しいと思う気持ちと怖いと感じる気持ちの割合は1対9である。従って、歩道の車道寄りを進む。中心視野は左やや斜め前方に向け、右手に広がる空と海は周辺視野に引っ掛かる程度にしておく。大した風がないのが幸いである。しかし、空間に高所の雰囲気が漂っていることを本能が察知している。リラックスには程遠い状態で歩き進めて行く。これが4キロも続くのか、と思うと座り込みたくなる。ワシは努めて他のことを考えるようにして、気を紛(まぎ)らせながら歩き続けた。

ほんの一日前、尾道(おのみち)へ向かう新幹線の座席に座り、完歩後のことに思いをはせていた。ゴール後には今治(いまばり)駅近くにあるスーパー銭湯で汗を流して心身を癒(いや)す。今治を出る前にはコインロッカーに荷物を預けて駅周辺の散策をする。完歩後のご褒美(ほうび)として、広島に住んでいた友人お薦(すす)めの尾道ラーメンを味わう。これは実際にSNSを利用して店舗情報を教えてもらい、尾道駅前からウォーキングのスタート地点のある因島(いんのしま)へ向かう道すがら、その店舗の在所も確認してあった。尾道からは在来線に乗り、車窓からの風景を眺めながら、ゆっくり旅情を満喫(まんきつ)する。その場の成り行きに任せながら、いろいろと楽しむつもりであった。しかし、それから24時間も経たない今、実現するつもりがあるのは銭湯に行くことくらいである。ただし、銭湯に行くのは純粋に汗を流すためである。風呂にも入らず、徹夜で歩いて汗だくになっているのである。帰路の公共交通機関内で人様の嗅覚(きゅうかく)に迷惑をかけるわけにはいかない。そういうことであるから、ゆっくりと湯に浸(つ)かって入浴を楽しむつもりはさらさらない。汗を流して着替えをしたら、帰路の手配をしてとっとと帰宅する。これまでの歩き旅でも散々(さんざん)な目に遭(あ)ったことはあった。しかし今回ほど心身共に疲れたことはない。ここにきての望みはこの旅を終わらせることだけになっていたのである。夜(よ)を徹(てっ)してのウォーキングは悪夢のような現実であった。それが旅を楽しもうとする心の余裕を奪ってしまったのかも知れない。そして今は更なる悪夢の中にいる。吊り橋は遠きにありて眺(なが)むもの、である。一刻も早く地上へ下りて、先ずは吊り橋のある風景を美しいと感じる心を取り戻したかった。橋上(きょうじょう)の空気に背を押されるように、ワシは橋の袂(たもと)へ向けて心持ち足を速めた。

大橋を下りて住宅地を抜け、市街地へ入ろうとしていた。少し前に、今治(いまばり)市街4キロとの道路標示を目にしていた。ゴールは近いと思われる。しかし市街まで4キロというような道路標示は、市街のどこからの距離であるのか、定かではない。歩き旅での経験上、それを額面(がくめん)通(どお)りに受け取っていると、思うように近づいてこない目的地にストレスを募(つの)らせるケースがあった。ゴールはそう遠くない、くらいに考えて進むことにする。来島(くるしま)海峡(かいきょう)大橋(おおはし)を渡り終えた頃には気温が上がり始めていたのであるが、今は顔に火照(ほて)りを感じる程度の気温にまでなっていた。体感的には前日の同じ時間帯より暑いように思われる。一昼夜寝ずに歩き続けている人間にとっては、かなりのダメージになりそうな状況である。若干のアップダウンがあっても、市街地のそれである。コース自体は大して厳しいものではない。しかし気温と蓄積してきた疲労がコースの甘さを相殺(そうさい)していた。更なる気温の上昇が見込まれることを思えば、ゴールへ向けて足を速めたいところであるが、ゆっくり歩ける程度の脚の状態ではそれも叶(かな)わない。またコースの見渡せる限りの場所には、日陰となるような場所を認めることもできない。大橋を下りて以降の道程を思い起こすと、アーケード街にでもならない限り、より先のコース状況も同じであろう、と思われた。つまり、お日様の熱気をゆっくりと受け続けなくてはならない。体力がかなり消耗(しょうもう)されることを覚悟しなければならなかった。しかし、少なくとも95キロ前後は歩き切っているものと考えられるのである。もうあと少しなのである。完歩へ向けて、何とか気持ちを前に向かせて歩を進めて行った。

水分、ミネラル補給に気を配り、店舗の軒先(のきさき)等で日陰になる場所があれば、そこで数分程度の休憩をする。そして改めて歩き続けて行く。見晴らしのよい真っ直ぐな道路は、ゴールへの道程がまだ遠いことばかりをクローズアップする。実際の距離がどうあれ、見えている先がゴールでない限り、そのまた先も道程は続くのである。うんざりしながらも、歩み続けるしかない。進めど進めど、直線道路は果てしなく続くように思えた。信号待ちとなり、腰を屈(かが)めて息をつく。高い建物の少ない通りを覆(おお)う青空が、やけに広く明るく見えた。通りの遠景(えんけい)が揺れて見えるのは陽炎(かげろう)であろうか。否、暑さと疲労で目の前の世界がもうろうとしているのである。脳の認知機能も疲弊(ひへい)しているように思われた。心身の限界が近いのかも知れない。ぼんやりとした意識で通りを進む。車道を行き交う車も、その走行音も、道行く人の姿も、声も全てが遠くに感じる。市の中心部らしい街並みが、車窓から見える平面的な風景のように通り過ぎていく。未(いま)だ日中の賑(にぎ)わいがない商店街の街並みは、サイレント映画のように目の前を流れていった。何を考えるでもなく、惰性(だせい)で前に進んでいた。ただただ、身体を前方へ移動させ続けて行く。ふと曲がり角に意識が向いた。ぼんやりしている風景の中で左折を促すイベント案内表示だけがくっきりと見える。左折した先がゴールであると直感した。しかし左折して路地に入っても、その先に城らしきものは見えない。それでもワシは、この通りで終わりであることを確信していた。自然と足が速まる。もう痛みなど関係ない。終わらせる、ただそれだけであった。前へ前へと身体を運ぶ。万一直感が間違っていれば、もう動く気力は湧(わ)いてこないであろう。ゴールが待つと信じた道を真っ直ぐに進んで行った。自分の息遣(いきづか)いだけが聴こえてくる。鼓動(こどう)がどんどん高まり、視界が揺れる。前だけを見つめるワシの目に水路のようなものが飛び込んできた。そして水路にたどり着いた刹那(せつな)、視界が急に広がった。その先に、朝の陽光に映(は)える今治(いまばり)城が姿を現した。

 

風に吹かれながら、ワシは今治(いまばり)駅行きのバスを待っていた。ワシ以外にも数人の参加者がバス待ちをしていたが、それほど多くはない。時刻表を見る限り、バスの到着まで相応の時間があった。バス待ちを嫌って、徒歩で今治駅へ向かう人も何人かいた。本来であれば、ワシも徒歩組に入っていなければならないところであった。今回のイベント参加はツギハギ旅の一環(いっかん)としてのものである。ツギハギ旅のリスタート地は駅にすることが原則であるので、今回の終点は今治(いまばり)駅でなければならない。つまり尾道(おのみち)駅から今治駅をつなぐのであれば、今治城から今治駅までの道程も歩いてつないでおく必要があるのである。今治城から今治駅まではそれほど遠いわけではないので、難しいことではない。しかしながら、ワシはバスを待っていた。もう歩けないということではない。21時間を優に超える苦闘の幕は下りたのである。帰宅のために必要な範囲を超えて歩くという選択はしない、という本能的決意であった。大きなザックを背負って、ワシはバス停に佇(たたず)む。その胸に去来(きょらい)する思いは、決して達成感などではなかった。

 

(もう二度とやんない…)

 

三週間後_

ザックを背負ってゼッケンをつけた多くの人々が駅に降り立っている。駅前ではボランティアと思われるイベントスタッフの方々が会場への誘導を行う。駅近くの八幡宮ではイベント参加の受付けが滞(とどこお)りなく進められていた。参加受付けを済ませた参加者はスタート地点である河原に向かう。土手ではスタート前の緊張をほぐすかのように参加者達が談笑していた。ここは行橋(ゆくはし)・別府(べっぷ)100キロウォークのスタート地点である。歩くことを好きになってから、ワシもいつか参加してみたい、と思っていたイベントである。この年の参加募集は数か月も前に終わっている。参加のためにこの場にいるのではなかった。スタート地点の雰囲気を肌で感じる。10月の朝の風が心地良い。ワシは独りスタートゲートを出る。スタート前の賑々(にぎにぎ)しい空気が、次第(しだい)に後方へと遠退(とおの)いていった。今日はこのまま小倉(こくら)駅まで歩いてから電車で帰宅する。別府(べっぷ)方面へ向かう道と小倉方面へ向かう道が分かれるあたりで河原を振り返る。

 

(ワシは来年、ここを歩く!)

 

きっとまた後悔するであろうことを予感しながら、ワシは再び歩き始めるのであった。

コメント

  1. くうすけ より:

    見にきたよ| |д・) ソォーッ…

    凄い!めちゃ大作ブログだね!
    暇見つけて読みにくるね

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