九州ツギハギ歩き旅
2.小倉(こくら)駅~水巻(みずまき)駅
晩夏の早朝、空の青に薄雲が溶け出していた。
空気はまだ爽やかさを残している。
人通りのまばらな小倉駅を出て、先ずは国道3号線を目指す。
ツギハギ歩き旅を順調に進めるにあたって、ワシはルート選択の基準を設けていた。
原則、概ね鉄道路線沿いで、目的地方面へ道なりに行ける幹線道路の通りを歩くようにする、というものである。
ツギハギ駅へのアクセスを考慮した上で、道中での地図確認の手間と道を間違えるリスクを減らすためのものであった。
今回はその基準に適った国道3号線で旅を進めていく。
歩く場所が日帰りでできる範囲にある間は、毎週の休日を利用して旅をつなぐことも決めていた。
歩くことに集中して、一回の旅でできるだけ遠くまで歩きたい、と考えている。
今日はゴールの駅を決めていない。状況を見ながら、できるだけ先に進むつもりであった。
日帰り旅の回数が少なければ、少ない分だけの交通費が節約できる。
ワシは貧乏とまでは言わないが、決してお金持ちではない。
経費の節約は、お財布事情に大きな影響をもたらす要素である。先で待っているであろう、宿泊を含む旅の資金繰りのこともある。疎かに考えていいことではなかった。
ただ、ワシは大雑把な人間なので、緻密な計算はできない。お財布に優しい歩き旅にするという大枠に沿って旅をつないでいく積もりであった。
前回は行程の途中で雨に降られたので、今回は天気予報の確認をしておいた。
快晴とはいかないようであったが、雨の予報はなかった。30℃を超えそうな暑さが心配であったが、状況に応じて、キャップの着用、水分補給等の対応をする積もりである。
以前、空調のある場所へ頻繁に避難しながら、炎天下に街歩きをしたことがあったが、
ツギハギ歩き旅では、そのような悠長なことはしていられない。
歩きながら、お天気に対応して進むのである。
そうして、できるだけ早く先へ進み、旅をつないでいかなければならない。九州一周の道程は、途方もなく長いのである。前へ進むことが優先事項となる。
とにかく、未知への挑戦をしているのである。
不測の事態へ臨機応変に対応する必要が出てくると思われる。道中での無駄を排して、心理的、経済的、スケジュール的な余裕を確保することが肝要となる。
ただ油断すると、ワシはすぐ易きに流れる傾向が顕著である。厳しく自律して歩き旅をストイックに進め、可能な限り無駄を避けるべきことを胸に刻まなくてはならない。
(高倉健ばりのストイックな姿勢でやっちゃる!)
<そんな大口をたたいて大丈夫か>
朝の澄んだ光が通りに降りている。街路樹の葉が微かに揺れていた。
ワシは唇を引き結び、意気揚々と小倉の街を突き進んで行った。
3号線に入った。大きなビルやマンションが林立している。車の通りはいくらかあるが、人通りはあまりない。
進むにつれて、少しずつ雲が広がってきているように見えた。しかし、黒くて厚い雲ではない。
天気予報の精度も昔とは比べるべくもない程に上がっているはずである。雨降りにはならないと思われた。
気温の上昇が遅れて、かえって都合が良い。
スッキリしない空の気配に包まれながら通りを進んで行く。
行き交う車のエンジン音も、ぼやけて聴こえる感じがした。
街は目覚めて動き始めているのに、空気には僅かな気怠さが混じっている。誰かが「仕事行きたくねえ!」とゴネているような雰囲気があった。
(気持ちは分かるが、仕事頑張りや)
<君は、遊んでいるのだけどね>
川を越えて高速道路の高架下を抜ける。
不意に期待と不安がないまぜになったような気持ちが湧き上がってきた。
自宅から小倉までの道や小倉市街は、これまでにも歩いたことがあった。ここまでは知らない場所を歩いていたのではなかったのである。
しかし、ここから先は本当に知らない場所であった。
どんな通りを歩いて、どんな街に行き着き、どんなことを目にするのか、そんな期待に心躍る反面、九州を一周するような旅を本当にこなしていけるのか、という漠然とした不安も湧いてきていた。
曇り空が何となく不安を煽る。
ツギハギ歩き旅の道程は長い。期待も、不安も、いずれも現実のことになることがあるであろう。
その時々の巡り合わせに身を委ねるしかない。
ワシは詮無い考えに区切りをつけるようにキュッと唇を結んだ。
最初にやって来たのは不安の方であった。
ここまで順調に進んで来ていた3号線の車道は、狭い路肩しかない高架に吸い込まれていった。そして歩道は高架の手前で切れてしまっている。高架の側(そば)道(みち)と思われる道路に路側帯があるのみであった。
3号線のここをどう進むべきなのか、何らの標示もない。
高架道路の路肩の幅は歩行者の侵入を拒んでいるようにしか見えなかった。車の往来も激しいそのような国道を命がけで歩くべき謂れはない。
道路が高架となっているのには、それなりの理由があるのであろう。側(そば)道(みち)が改めて3号線に案内してくれるはずである。
ワシは坂道を上って行く車を横目に側(そば)道(みち)を歩き始めた。
狭い通りには昔からあると思われる個人の商店、飲食店が並ぶ。
進むにつれ、高架道路の壁の高さが増し、通りの空間は遮られていく。気詰まりな雰囲気が漂う通りを進んで行くと、道は線路に突き当たった。
高架は跨線橋だったようである。
突き当りの道は、右折方向が跨線橋の下を右斜め前方へ、左折方向が左斜め後方に伸びていた。
左折方向に踏切のようなものは視認できない。少しでも前進する方の選択をすべきであろう。
右折して跨線橋の下を抜ける。こちらでも踏切のような場所は視認できなかった。
このまま線路沿いを進めば、3号線から離れていく一方のように思われた。
(くそぉ…フェンス越えて線路を突っ切っちゃろか)
<捕まりたいのか。立派な犯罪である>
止むを得ず、地図を確認する。
地図確認の手間を節減するためもあって、国道3号線を旅のルートに選択したのである。その思惑を打ち砕くように訪れた不測の事態にうんざりしつつ、3号線復帰への道を探る。
迂回路は少々距離ロスとなりそうなものであったが、仕方がない。
ワシはため息を合図に再び歩き始めた。
迂回路を抜け、3号線に戻った。
テナント付きマンションやテナントビル等が立ち並んでいる。幹線道路沿いによく見られる風景である。
真っ直ぐに伸びる片側2車線の広い通りを進んで行く。
空模様はやや回復傾向に見える。
広い歩道を歩いているうちに、ワシも歩道消失ショックから回復しつつあった。
迷いなく歩いて行ける道では歩くペースも自ずと上がる。周辺視野の風景がどんどん流れて行く。
通りの建物もチェーン店等の商業施設が増えていった。
そうした商業施設の多い通りを抜けると、3号線の車道は上り坂となっていった。
(ん…何じゃそりゃ…)
またもや車道の脇に歩道がない。
頭を抱えそうになりながら、辺りに目を遣る。30段程度の階段が目に入ってきた。どうやら、その階段を上った先に歩道があるようである。
歩行者にのみに余計な労力を使わせる国道の構造が腹立たしい。
しかし他に安全な歩行通路がない以上、階段を上って旅を進めるしかない。
高みにある歩道をしばらく進むと下り坂となった。
これで車道脇の歩道につながる、と思いかけたのも束の間、また階段が待ち構えていた。
(おのれ…)
再び右下方に行き交う車を恨めしく思いながら階段を上る。
しばらく歩き進むと、今度は下り坂となり、その向こうには既に上り坂が見えている。
(……)
歩行者を翻弄するこの国道の構造は何の嫌がらせなのであろう。
先程もそうである。何の前触れもなく歩道を途切れさせ、側(そば)道(みち)への進行を余儀なくさせる。そしてその後は、3号線復帰への道筋を何ら示すこともない。歩行者は自力で迂回してね、と言わんばかりの態度である。
どんな人間がこのような道路にしてくれたのであろう。その方には声を大にして申し上げたい。
「歩行者ファーストが交通の鉄則である!」
もっと言いたいことはあるが、他は胸中で唱えることにした。
(今日はこれくらいにしとったろ)
<何様の積もりだ>
こうして少しばかり進んで行くと、ようやく車道に隣接した歩道に出た。
ワシは心の中での悪態をエネルギーに変えて、長い上り坂に挑んでいった。
通りが下りになって、どれくらい経った頃であったろうか。再び歩道が途切れた。今度は最初のときと同様の側(そば)道(みち)パターンのようである。
今回は直接3号線に復帰できることを祈りつつ、側道を突き進んで行く。
細い道であるが、しばらく進んでも、しっかり3号線に寄り添ったままである。
これならば、迂回することなく国道に復帰できるのではないか、との期待を膨らませ始める。
遠くに見える雲のぽっかりと開いた口に青空が顔を覗かせている。気温は少しずつ上昇していくものと思われた。
先を考えると、余計な行程を加えたくはない。
地図確認をしながら歩き進めるのも、面倒であった。
祈るような気持ちで進んでいると、気温ではなく国道が上昇し始めた。
(はいはい…嫌な予感しかない…)
<そうね>
そして間もなく予感の的中を告げる光景が現れた。
(敢えて言葉にしよう…何じゃそりゃ!)
<ドンマイ>
高架となっていく国道、行き止まりとなる側(そば)道(みち)、ワシは忌々しい高架の下で地図アプリを開くのであった。
見知らぬ住宅街を抜け、迂回路に選んだ通りに出る。
車道も、歩道も広々としている。
所狭しと建物が並ぶ国道とは違い、その通りは郊外地のような雰囲気で視界が開けたような感じがした。
沿道のビルで空が区切られた国道にはない開放感である。
お天気は回復傾向で、青空が居場所を押し広げつつある。
沿道の大型ショッピングセンターも、テーマパークも営業前で人影はあまりない。
日中は人出もあって賑わうのであろうが、今は静かに落ち着いた雰囲気に包まれている。
思わぬ事態に辟易していた気分がいくらか和んでくる。
この通りのものほど大規模なものではないが、子供の頃に遊んだ近所のショッピングセンターのことが思い出された。
当時、市街地のデパートにしかなかったエスカレーターを備えたショッピングセンターであった。
自分の町にエスカレーターがある。
何となく嬉しくて、休日の遊び場所の一つになった。
エントランスを入ると、お茶屋さんから香ばしい匂いが漂ってくる。その先の本屋さんで立ち読みをし、更に奥のおもちゃ屋さんでプラモデルを眺めたりした。
上りしかないエスカレーターを上り下りして、叱られたこともあった。
小さな町のショッピングセンターであったが、当時は住民も相当数いたので、それなりに賑わっていた。
そういえば、ある時、そこでアイドルタレントのイベントが催されたことがあった。
トップアイドルではないが、それなりに世間の認知度がある男性アイドルで、ワシもテレビで見たことがあった。
当時のワシは芸能人にあまり興味がなかったので、見に行く気など、さらさらなかった。
しかし地方の小さな町のことである。芸能人に会えるとなれば、イベント会場は人で溢れんばかりになると思っていた。
妖しい目つきと腰つきで歌って踊るアイドル。
黄色い歓声がこだまするイベント会場。
ショッピングセンターのホリデーは大いに盛り上がるはずであった。
ところが蓋を開けてみると、イベントには数人の観客しか集まらず、アイドルが怒って帰ってしまったのであった。
(B級はB級ってことやったんやろな)
<お前が言うな>
小さな会場がとても広く見えた、と吹聴する友達の意地悪な笑顔が今でも印象に残っている。
黒崎駅の手前あたりで3号線に復帰し、再びビルやマンション、様々な商業施設が立ち並ぶ大通りを進んで行く。
この歩き旅は目的地だけを目指して歩くことのみに集中するはずであった。しかしここまでは、行き当たりばったり的要素満載の旅になっていた。
知らない場所を地図と共に行き当たりばったりで歩くことは楽しい。
ワシは元々、そうした街歩きが好きだったのである。ただし、それはワシの意思に基づいた街歩きの場合である。
国道に翻弄され、ワシの意思などお構いなしに展開されていく街歩きなど、真っ平御免であった。
二回目のツギハギ歩き旅にして、この有り様である。
道の構造なのであるから、仕方のないことではある。しかし先の長い道程を思うと、何となく憂鬱になってくる。
心も空も薄曇りとなっていた。
(ホント、ええ加減にしてくれっちゃ)
迂回させられると、余計な体力の消費もあるが、それ以上にボディーブローのように効いてくる精神的ダメージが大きい。
せっかく立てた行程の計画など全くのスルーで遠回りさせられる。そうなれば、徒労感に苛まれるし、何か損した気分にもなる。
自分の行動を自分でコントロールできていない状況では、不安で物事を前向きに進めることもできない。
不安感も、徒労感も、損した気分もモチベーションの敵である。
モチベーションがつながらなければ、道もつながらない。ひいてはワシのやる気スイッチオフで挑戦が頓挫することにもなりかねない。
(ワシを根性なしと知っての邪魔立てか⁉)
<芝居がかった言い方で、何を言っている>
とりあえず今は、事態が好転することを信じて前に進むしかない。
ワシは気を取り直すように歩調を速め、市街地の国道を進んで行った。
通りは似たような風景を繰り返しながら、いくつもの町をつないでいた。
郊外の幹線道路らしく、沿道には車両利用者を対象に集客を図るロードサイド店舗が目に付いた。
ビルや商業施設が立ち並ぶ場所を抜けてからは、ほとんど歩行者の姿を見ていない。
そうした店舗の顧客戦略の正しさを証明しているかのようである。
行き交う車を視野の端に捉えながら、坂道を上って行く。
勾配はきつくないが、存外に長い坂道である。上り始めてから、そのままずいぶん進んで来ている。少し息が上がりそうであった。
(もうええやろ…)
お昼が近づいて、気温も夏らしくなりつつあった。
蝉の声が少し鬱陶しく感じられた。
ようやく下り坂に入る。
息を整えながら、心持ちゆっくりと下って行った。
(いやいや、ホント、もうええやろ⁉)
緩やかな左カーブの先で、国道が分岐していた。車道は右に、歩道は左に伸びている。
(あなたは右に、私は左に…)
<アン・ルイスか>
微妙な放心状態で地図アプリを開く。
歩道は一旦3号線から左折方向に離れるが、その先にある商業施設の前を迂回すれば、再び3号線に合流できる。
これまでの迂回に比べれば、距離損はほぼ無いに等しかった。ホッと胸を撫で下ろしつつ、迂回路を進んで行く。
(今日はこれくらいにしとたってください)
程なく3号線に復帰し、その歩道を歩き始める。
少し進むと、「水巻町」の表示が見えた。
町名は知っていたが、踏み入るのは初めてである。何となく気持ちが上がってくる。心なしか足取りも軽くなったような気がした。
街路樹の日陰とそこを抜ける風が、汗ばんだ身体に心地良い。
午後は順調に旅を進めていけそうな気がしてきた。歩くペースも自然に上がってくる。
(ん…あら……)
<やっぱりね…>
国道は真っ直ぐに続いていく。側(そく)道(どう)と歩道は真っ直ぐに下っていく。
とりあえずそのまま進むと、先の様子が見えてきた。
側道は下った先の交差点を直進すると上り坂となり、3号線に合流。歩道は交差点で途切れ、その先は住宅街の路地に入って何とかしなさい、ということのようであった。
助かった、と思わせてからのカウンターパンチである。テンカウント内にファイティングポーズをとる自信はない。
(何じゃそりゃ…)
<ドンマイ…>
今日、何回目の「何じゃそりゃ」であろう。
交差点で信号を待つ間、ワシは遠くの空を見つめていた。
曇り空の住宅街を抜け、3号線に復帰する。
それほど大きく迂回する必要はなかったので、いくぶん気持ちは晴れていた。
しばらく進むと、歩道橋が目に入ってきた。欄干部に水巻駅の方向を指し示す表記がある。
そのすぐ側に眼鏡店があった。店舗前にはベンチが設置されている。
まだお昼前の時間であるが、腰掛けて休息をとることにした。
スマホを取り出し、地図を見る。
午後の時間を使えば、いくつか先の駅まで旅を進めることができそうであった。
しかしモチベーションが上がってこない。
嘆息して空を見上げる。数粒の水滴が顔を打った。
観測されない程度の通り雨のようで、すぐに雨は止んだ。
(ふーん…そうきたか…)
<ストイックに出来るだけ遠くまで行くんだよね>
その日の天気予報からすると、その後の降雨のおそれはかなり少ないと思われた。
万一の場合にも、折りたたみ傘の用意はある。
泳ぐ視線が「水巻駅」の表記を捉えた。
路面に点在している雨粒の跡を見つめる。
心は決まった。否、心が折れた。
(もう帰る)
<高倉健はそんなこと言わない>
やはり、長年沁みついている性根は簡単には変わらない。
根性なしっぷりを遺憾なく発揮し、ワシは水巻駅に向かうべく立ち上がるのであった。