九州ツギハギ歩き旅
6.筑前(ちくぜん)前原(まえばる)駅~唐津(からつ)駅
始発電車を待つ駅は静まり返っていた。
利用客の姿はまだ少ない。
改札を抜ける人達の背中には微かな緊張感が漂っている。駅舎の空気が少しずつ張り詰めていくのを感じる。
とりあえずワシは券売機へ向かった。
前回の旅から「旅名人きっぷ」を利用し始めたのであるが、その有効エリアはJR九州の駅でもある下関駅から先となる。そのため、ワシの最寄り駅から下関駅までは通常の切符を購入しなければならないのであった。
券売機に紙幣を挿入する。
紙幣の状態が良くなかったのか、一瞬の間を置いて紙幣が挿入口に戻って来た。
鮮やかなグリーンのカメムシがちょこなんと乗っている。
旅立ちの朝、奇跡的な形でカメムシと対面する。そこには何らかの吉凶の兆しが示されているのではないか、と考えるのが人情であろう。
しかし神様が何をお告げになりたいのか、ワシには測りかねた。奇跡の内容が物凄く中途半端なのである。
ワシは虫が苦手ということはない。だからカメムシが目の前に現れたところで、どうということはない。しかし嬉しくもないのである。
特に悪くもなければ、良くもない。つまり普通ということになる。ならば、そこには何らかの暗示を与える意味はない、と考えることになろう。
ただ、どうでも良い出来事に奇跡の力が使われてしまったことは間違いなかった。
そして奇跡は希少であるから奇跡なのである。
そこで考えられるのは、ワシに奇跡がやって来る可能性が遠のいたということであった。
ルーレット機能付き自動販売機の抽選に当たったがために宝くじ当選が遠のいたようなものであろう。朝から複雑な気分になった。
とりあえずは、後の人のためにも悲劇の連鎖は断ち切っておかねばならない。券売機の紙幣挿入口へ戻ろうとしているカメムシを一息で吹き飛ばし、ワシは改めて紙幣を挿入するのであった。
筑前(ちくぜん)前原(まえばる)駅の階段を下りながら、ワシは改めて考えた。
今朝のカメムシの件である。
ワシは前回の旅で何の臆面もなくその不甲斐なさを発揮した。神様はそんなワシに無意味な奇跡で代償を支払わせたのかも知れない。
真摯に臨むはずの「ツギハギ歩き旅」であった。それにも関わらず、前回のワシは己のお楽しみを優先させ、あまつさえ怠け癖にも敢え無く屈してしまった。
その旅の終わりにワシは来世での改悛を誓い、神様の宥恕を得たつもりでいた。しかし神様はそこまでワシを甘やかしてはくれなかったのであろう。
一般的に奇跡は肯定的なイメージを伴うものである。
奇跡的なことがあった、と聞けば、大多数の人間は、特に良いことがあったのであろう、と考える。
そして今朝、そんな奇跡がワシから遠退いて行ったのである。
つまり、今日は特に良いことは起こらない。それが奇跡のカメムシ事件が暗示するところと考えるべきであろう。
神様は消極的な代償をワシに支払わせたのである。
駅前のロータリーに出ると、それを裏付けるかのように快晴の空が広がっていた。
青空がワシに微笑みかけている。
今日という未来の希望と引き換えに、みそぎが行われたということであろう。
はあっと息を吐いたワシは肩をすくめて苦笑いを浮かべるしかなかった。
萎びた希望をザックに放り込んで、ワシは駅を後にした。
202号線に入ってしばらく進むと、筑紫(ちくし)線の線路と国道が路肩を挟んで並走するように伸びていた。
線路の向こうには住宅が立ち並ぶ。
(なんとなく懐かしいのぉ)
ワシも昔、線路脇のマンションで暮らしたことがあった。
それなりに綺麗なワンルームマンションであったが、線路沿いという立地条件もあって安めの家賃設定となっていた。
収入の少ないワシには有難い物件であった。
建物は線路から10メートルも離れておらず、それなりの防音効果があると思われるサッシ窓を閉めても、走行音を締め出すことができていない状態であった。
また、ワシはその二階部分に住んでいたのであるが、部屋の窓の位置が通過する電車の車窓とほぼ同じレベルにあった。
仮にワシがヌーディストであったなら、状況次第では公然わいせつ罪に問われるような状態だったのである。
騒音、プライバシー等々、色々と懸念される材料がある住環境であったが、ワシはそこで20年近い年月を過ごした。
一般的な感覚であれば、もう少し条件の良い場所に移りたくなるのが人情であろう。
しかしワシは、そこを引き払う必要が生じるまで、一度も引っ越しを考えることはなかった。
ワシは面倒なことが嫌いである。そして引っ越しに伴うやるべきことは総じて面倒なことである。
しかも、幸か不幸かーおそらくは不幸なのであろうがーワシには引っ越しをしてより良い物件に住むほどの経済力もなかった。よって引っ越しを考える余地すらなかったとも言える。
ワシらしい大変残念な理由により、憲法の保障する「移転の自由」を自縛していたのである。
ただ人にもよるのであろうが、電車の騒音であっても、慣れると気にならなくなるものである。
昼下がりに窓枠に腰掛けて電車が行き来する光景をぼんやりと眺めるのも悪くはなかった。
終電車が行ってしまった後に耳にする虫の音は、綺麗に澄んだソプラノであった。
結局は住めば都ということでもあったのである。
どんな場所であれ、暮らしていけば、そこには様々な思い出が積もっていく。
たくさん失敗もしたが、それらも含めて、そこはキラキラした宝物のような時空であった。
快晴の空の下、キラキラと輝く朝の日差しが通りを包む。
ワシは思い出と手をつないで道を行く。
直線的な通りの彼方にある山の端が陽光でぼやけて見える。
通り沿いの線路があの日の線路と重なった。
遠くに電車の警笛が響いたような気がした。
湾に臨んだ通りに入ると、歩道が消えた。通りは車道と路肩だけで構成されている。
(今度はそんな消え方かい⁉)
<迂回よりはマシやろ>
歩道らしい歩道がないだけで、消えたわけではない。ただ、ここからは路肩を歩いて行かなければならないようであった。
路肩とは歩道の設置された道路の両端にある白線の外側部分のことである。
これに対し歩道がない道路では、その部分は路側帯という名称に変わり、歩行者が通行するための場所となるようである。従って、正確には路側帯を歩いて行かなければならない、と表現することになる。
どちらも同じ場所を指す言葉であるので、言葉の使い分けに、それほど神経質になる必要はないであろう。
ただ、路側帯は歩行者が通行するための場所であるので、車やバイクがその場所を通行すると道路交通法違反になる。
意外と忘れてしまっている運転者もいるようなので、そこには気をつけたいものである。
閑話休題、運転者の心配も良いが、何よりも実際にその路側帯を進む歩行者であるワシ自身の心配が最優先であろう。
そこは車道と白線一本で区画されているだけの場所なのである。車道より一段高く設置されていたり、ガードレールで区切られていたりする歩道に比して安全性のレベルが低いことは否めない。
車の運転をしていると、右カーブでカッティング走行という対向車線へのはみ出し運転に遭遇してヒヤリとすることがある。こうした運転者が左カーブで同様のことをしないという保証などない。
万一そのような事態に巻き込まれた場合、今日の旅先があの世ということになり兼ねない。
車の往来が多くない通りなのであろうが、そうした危険に留意して旅を進めていかなくてはならない。
しかしこのことは、詰まるところ運頼みということになる。あまりナーバスになるのは旅の楽しみを損ねるだけである。
今日は特に良いことは起こらない。それが「カメムシの奇跡」における神様のお告げだったはずである。
悪いことが起こるといった暗示ではなかったのであるから、運頼みが裏目に出ることはあるまい。
神様に支払わされた代償すらも味方につけて、ワシは逞しく旅を進めて行くことにした。
もうそろそろお昼を迎えようとする頃であろうか、「玄海(げんかい)国定公園」と書かれた標識が見えてきた。
申し訳程度の狭い路側帯しかない道路脇に国定公園と書かれても、今一つピンとこない。
そんな思いを抱きながら進むと、パーキングエリアが姿を現した。トイレ休憩を兼ねて寄ってみることにする。
駐車スペースの奥には白い砂浜と微かに緑がかった水色の海が広がっていた。
景勝地と呼ぶに相応しい景色で国定公園に指定されるのも納得である。しかし、そのような場所であるにも関わらず、そこは公衆トイレと自動販売機が設置されているだけのパーキングエリアであった。
景勝地という観光資源がもったいないように思われた。
道路や敷地を拡げて、道の駅等の観光施設にするなどして活用すれば、地域の活性化につながるのではないか、と思えたのである。
大きなお世話であろう。しかし道路が拡がれば、ワシには歩き旅の安全性向上という反射的な利益もある。意見くらい述べても良いであろう。
もっとも、ワシが直ぐに思いつくようなことである。既にそうしたことは検討済みで、諸事情により実現できていないだけと考えるのが本筋なのかも知れない。
国定という響きとは不均衡なスケールの国定公園に残念なイメージを抱きつつ、ワシはパーキングエリアを後にした。
なお、後に知ったことであるが、「玄海国定公園」は玄界灘(げんかいなだ)沿岸を中心とした指定地域にある景勝地や史跡の集合体であった。
福岡、佐賀、長崎の広範囲に及ぶもので、国定と呼ぶに十分なスケールを持つものである。
物を知らないまま、不用意なことを考えるものではない。
佐賀県の唐津(からつ)市に入った。
9月末の日差しは己を主張することなく空と海をぼんやりと包んでいる。
通りの海岸側には整備された歩道が現れた。これで暫くは安心して、景色も楽しみながら歩いて行けそうである。
お昼も近くなり、気温がいくぶん上昇してきていた。とはいえ、真夏のような暑さではない。
それなりのペースで歩いていたが、海風が心地良い程度の発汗状態であった。
風にふんわりと包まれて、心持ち歩調が緩む。
柔らかい光が霧のように舞う道を歩いていると、全ての思考が停止する。
茫洋とした情景に心が旅情に染まる。
海に面した柵にもたれて、暫くの間ぼうっとしていたくなる。しかし前回の旅と同じ轍を踏むわけにはいかない。
やや落ち着いたペースではあるが、着実に前へ進んで行く。
しばらく行ったところで、漁港と池のようなものが見えてきた。
沿道には「活車えび直売所」と書かれた看板が立てられていた。
よく見ると、池のように見えていたものは大規模な水槽と思われた。海岸部の海を防波堤のような壁で囲ってある。そこで車えびが飼育されているのであろう。
自分宛てに購入、自宅に直送したくはあったが、そのような時間もお金もない。
真摯に歩いて旅を進めていく。それが「ツギハギ歩き旅」の原則である。
ややもすると、ワシはそこからすぐに脱線してしまう傾向にある。そんな自分を本道へ引き戻すように、ワシは脚を速めて道を下って行く。
遠くに見える陸地が逆光を受けて茫とした姿を見せている。
どこか眠たげなその姿に昼下がりを感じる。
坂道を下りきった所で道路標示に目を向けた。202号線はこの先を左折するように案内されている。直進すれば、「虹(にじ)の松原(まつばら)」へ向かうことになるようであった。
地図確認の手間を省き、迷うことなく道を進むために国道のような分かり易い道を歩く。それがこの旅の基本方針である。
そして、この歩き旅が物見遊山の旅でないことは、今更言うまでもないことであろう。
従ってワシはこの先を左折するのが筋である。しかしワシはそこを直進する。
旅立ち前の地図確認でそう決めていた。
理由は簡単である。唐津駅へは直進した方が近いのである。直進して道なりに行けば、唐津駅から程近い場所に出られる。
つまり効率的で分かり易い旅路の途中に、たまたま「虹の松原」という名勝があるだけの話なのである。決して物見遊山に興じようというわけではない。
ワシは臆するところなく分岐を直進して行った。
古い民家や建物が並ぶ通りは、緩やかなカーブはあるものの、見通しは良かった。
車の往来はそれなりにあるが、人通りは少ない。たまに遠くに人影を目にする程度である。
中天を過ぎたお日様の柔らかい微笑みが通りに注がれている。
落ち着いた雰囲気に包まれる通りを進んで行く。
すると、通り沿いにあるコンビニの店舗が目に飛び込んできた。昼食を摂っていないことに気付く。
ただ、それほどの空腹感があるわけではない。そのまま通過しようとも思ったが、水分補給のことを考えて入店することにした。
空調の効いた店内でホッと息をつく。
ペットボトル飲料を手にしてレジへ向かおうとしたところで、冷凍ショーケースに目が留まる。
そこには彼がいた。白くま君である。
ワシのお気に入り「イチゴの白くまアイス」―今朝の奇跡のカメムシ事件につながるストーリーの冒頭にそれがあった。
(学習したばかりだよな⁉)
<何故、標準語で自問する>
前回の旅では空き腹に「イチゴの白くまアイス」を送り込んだ結果、胃に変調をきたし、吐き気に襲われた。
過去に甘い物を食べ過ぎて、そのようになったことはあったが、甘い氷菓一つでも状態によってはそうなることを経験したのであった。
ワシは学習したのである。
後ろ髪を引かれつつも、思慮分別のある大人のワシは白くま君の手を振り切ってレジへと進んで行った。
住宅街を抜けると、「虹(にじ)の松原(まつばら)」が姿を現した。
凄まじい数のクロマツが思い思いの方向に頭を向けて群生している。
奥行きのある松林とそれに覆われるように伸びる通りには光と影が不規則に散らばる。
日本三大松原に数えられているのも納得の景観である。
通りの所々に土産物店や観光施設が点在していたが、その規模も数も景観の邪魔をするほどのものではなかった。
松林の中を犬と一緒に散歩をしている人を数人見たが、他に歩いて擦れ違う人はいなかった。
似通った景色がどこまでも続くように思われたが、不思議とそれに飽きることはなかった。
充満しているであろうマイナスイオンに癒しを覚えながら歩みを進める。
しばらく進んでいると、数台の車両が駐車している空間が見えてきた。
近づくと、マイクロバスを店舗に仕立てた「からつバーガー」の店が現れた。
唐津名物「からつバーガー」、以前、何かの機会に耳にしたことのあるご当地グルメである。
お昼時でもあり、ご当地グルメへの興味も手伝って、ワシの食欲が刺激される。
「ツギハギ歩き旅」は物見遊山の旅でもなければ、食べ歩きの旅でもない。しかし名所の忌避や名物賞味の禁止がルールとなっているわけではない。旅の経路上にたまたま存在したのであれば、名所を楽しむことも、名物を賞味することも問題ないはずである。
実際、ここ「虹の松原」もそうした理で歩いている。ワシは堂々と「からつバーガー」を頬張れば良い。
しかし今ここでは、それを許さないワシがいた。
(くそー!)
ワシはマイクロバスに踏まれた後ろ髪を引き抜くように、大股でその場を通り過ぎて行くのであった。
時は遡る。コンビニから学習能力ある大人のワシが出て来た。
ゲートタイプの車止めに腰掛けてレジ袋からあの商品を取り出す。
「イチゴの白くまアイス」、ワシのお気に入りアイスである。
その数分前のことであった。白くま君の手を振り切ってレジへ向かいつつ、ワシはこう考えた。
確かに、前回の旅では白くまアイスを食べて胃に変調をきたした。しかし一度そのようなことがあったからと言って、同様な条件が揃えば、毎回同様な結果になるとは限らない。
また前回、それを食したのはお昼時にはまだ早い中途半端な時間であった。今回はお昼時であり、条件は異なると言える。
お昼時に昼食として食べるのであれば、お腹の受け入れ態勢も整っているはずであろう。
真夏ほどではないが、それなりの気温の中で歩き続けていることを考えれば、身体に涼を与えることも必要と思われる。
しかも、ここから今日のゴールである唐津(からつ)駅までは、それほど長い距離が残されているわけではない。万一の場合でも、何とかできるはずである。
(ワシは今からお昼ご飯を食べる!)
そのメニューがたまたま「イチゴの白くまアイス」になっただけである。
今この時、このコンビニで食指が動くものがたまたま「イチゴの白くまアイス」だけだったのであるから仕方がない。
そして欲するものが、そのとき身体に必要なものである。
ワシは「イチゴの白くまアイス」をもって本日の昼食による栄養補給を完結させる。
欲望に負けたいときの理屈はいつも強引で、高らかな敗北宣言で結ばれる。
「からつバーガー」の出現など夢想だにしないワシは、コンビニの駐車場でささやかな幸せをかみしめるのであった。
「虹の松原」を抜け松浦(まつうら)橋を渡っていると、遠くに「唐津城」が見えた。
午後の陽光に川面もお城もまどろんでいるように見える。
唐津駅まで残すところ2キロ程度の道程であろう。普通に歩いたとしても、30分かかることはないと思われた。
橋の欄干に寄りかかって一息つく。
今回もそれなりに良い旅ではあった。危惧していた身体の変調もなく、予定していた行程も無事にこなせそうである。
しかし一面、今日は特に良いことは起こらない-神様の御心通りの日でもあったように思う。
小さな幸せを噛みしめた歯で小さな不幸に歯を食いしばる。
同程度の幸不幸は相殺されてプラスマイナスゼロなのであるが、不幸が後の分だけ、良いことが起こらなかった感が強く残る。
全ては自業自得であった。
ワシの辞書から克己心という言葉が欠落してしまったのはいつからなのであろうか、否、最初から載っていなかったのかも知れない。
必要でも大変そうなことは避けるか、先送りにするが、欲望には努めて従順であろうとする。
推奨も、肯定もされないライフスタイルである。ワシ自身もそうありたくはない。
(「したい」と「ありたい」は、仲良しじゃないんよね…)
<他人事みたいに言うな>
「旅名人きっぷ」で帰る電車の旅は4時間程度かかるが、宵の口には風呂につかることができよう。
ワシは一つため息をつき、唐津駅へ向けて再び歩き出すのであった。