九州ツギハギ歩き旅
9.松浦(まつうら)駅~長崎駅
【前夜・一日目】
木々には紫と白のイルミネーションが瞬いていた。駅前の涼やかな夜の空気がそれらを滲ませる。しばし足を止めて、その光景に見入る人も少なくない。
ビルではネオンサイン、袖看板等の灯が揺れ、車道ではヘッドライトが交差する。通りには主張の強い光が散らばっている。
そうした博多(はかた)の街の灯に上空の半月は遠慮がちに輝いていた。
道行く人の背中の揺れには、気忙しい雰囲気が漂う。
少し先のビルから女性が出て来た。タイトなミニスカートにハイヒールといった格好でカツカツと小刻みな調子で歩いて行き、また別のビルに吸い込まれて行った。
ワシの旅路では、まずお目にかかることのないタイプの女性である。
(サバンナへようこそって感じやな)
<君は、百名山へようこそって感じだね>
大きなザックを背負いながら、繁華街を歩いて行く。
容量30リットルのザックには、着替え、雨装備、応急キット、ポータブル電池等々、必要となりそうなものを詰めてある。
過剰装備と思える節もあるが、道中で後悔することのないように準備した。
この泊り旅を糧にして、先々で無駄なものは削っていけば良い。
ただ、このザックを背負って何十キロも歩くことを思うと、少しばかりぞっとしない心持ちであった。
今回の旅は背負う荷物の量も、歩いて移動する距離も、未知への挑戦である。心してかからなければならない。
(とりあえずは、仕事終わりの一杯じゃ。安そうな店に入ろうかの)
今夜は軽く食べて飲んだ後、カプセルホテルに宿泊する。そして明朝、始発電車で今回のリスタート地点、松浦(まつうら)駅へ向かう。
逸る気持ちを抑えるように、すっかりメイクを整えた街をゆっくりと歩いて行った。
始発電車で博多を出発したワシは、有田(ありた)経由で松浦駅に向かっていた。
有田焼の窯元から伸びている赤煉瓦の煙突が車窓を流れていく。
この日は雨予報であったが、今は概ね晴れていた。雲はあるものの、雨の気配は感じられない。
(やっぱ、日頃の行いかのぉ)
<違います>
未知への挑戦に不安がないわけではなかったが、気持ちは高まるばかりであった。
泊り旅初日の今日は、松浦駅から平戸(ひらど)経由で佐世保(させぼ)駅を目指す。その行程は約55キロである。
このまま順調に松浦駅に到着すれば、9時半前にはツギハギ歩き旅をリスタートできる。時速6キロ平均で歩くとすると、19時前くらいには佐世保駅に到着できる見込みであった。
(このまま降らんでくれたら、もうちいっと早うゴールできるかもやな)
仮にそう都合良くいかなかったとしても、今回の道行きに雨が与える影響は多くない、と思われた。防水・透湿素材であるゴアテックスのレインウェアとシューズをこの日のために購入していたのである。
これらの製品を着用していれば、雨濡れの心配はない。雨などお構いなしに行動することができるのである。
優れものの商品だけに値段も優れものであったので、歯を食いしばりながら購入したのであるが、後悔はない。
(初回の歩き旅で雨にやられたけど、もう大丈夫じゃ。雨でも槍でも降りやがれ)
<槍は困るだろう>
駅への到着が間もないことを知らせるベルが車内に鳴り響く。
松浦駅への到着はまだ先である。
リスタート前の高揚感を静めるように、ワシは目を閉じた。
峠越えを繰り返す山道に歩道らしい歩道はなかった。
途中の集落等には歩道のある場所があるにはあった。しかし山道の割合が多いので、ずっと狭い路側帯を歩いて来ているような気がしていた。
山道には曲がりくねったポイントも相応にあるので、見通しの良い道というわけではない。
車道と白線一本だけで仕切られているだけの通行ルートは、やはりぞっとしない。
車が頻繫に行き交うような道ではないことが、せめてもの救いであった。
(スパイダーマンが駆け下りて来たりして…)
<言霊ということを知らないのか>
こうした道では腹を括って進んで行くしかないことは分かっている。
一応の注意は払うが、気持ちの切り替えを図りながら、進んで行った。
空は薄雲たちの気紛れに任せて、時々に表情を変えていっている。空模様はまだ雨予報を退けていないように感じられた。
(まあ、降ってもええか…ワシにはゴアテックスがあるんじゃ)
<だから、言霊ね…>
ゴアテックスのシューズは既に履いている。レインウェアはザックの中であるが、取り出し易いように収納してある。雨に対する準備は整っていた。
新しい雨装備の機能性を確かめてみたい気がしないでもなかったが、歩き旅の便宜を考えると、降らないに越したことはない。
(どっちにしても、今日はゴールが遠いけえ、頑張って歩かんといけん)
山道の多い通りは全体的に荒涼とした雰囲気が漂っていた。アップダウンが多いこともあって、何となく歩調が鈍りがちであった。
そんな中、たまに姿を見せる海と松浦鉄道の線路の情緒が気持ちを和ませた。
まだまだ先は長い。
気持ちを適宜切り替えながら、ワシは力強く歩みを重ねて行った。
田平港に着いた。
海を挟んで奥にある平戸島のお城が見えている。その左方向には平戸橋が海を跨いでいた。
辺りは薄日に包まれている。その柔らかくて、しなやかな光は透明な絹の衣のようであった。
漸く、九州西端の地に到達した。ここからは南下して長崎を縦断しながら進んで行く。
旅の途中であるが、何となく一区切りついたような感慨を覚えた。
今日は初めて50キロを超える歩き旅に挑んでいる。あまり悠長なことはしていられないのであるが、少しだけ休憩を取ることにした。
適当な場所を見つけて腰掛ける。ザックから解放された背中が涼しく感じられた。
(鶏ご飯のイナリ、思った以上に美味かったのぉ…)
ここに着く前に見つけたコンビニで、ワシは珍しくちゃんとした昼食を摂った。
未知の距離を歩いて旅するのであるから、普段と違うことは控えるべきとも思われた。
しかし普段の倍近い距離を徒歩移動することも事実である。いつもと違う対応をしてしかるべきであろう、と考えたのであった。
(抹茶の雪見大福のデザートも正解やったの)
<そっちを食べたかっただけじゃないのか>
つい先ほどまで港に差していた薄日が陰ってきた。
平戸大橋上空には灰色の雲が広がり始めている。
(ちょっとヤバいかも…)
<君のせいかも…>
ワシは短い休憩を切り上げて、港を見渡す坂道を上って行った。
峠の道の駅を通過する。これから道は下り坂となる。
お天気も同様に下り坂となっていくようであった。雲の濃さが増しつつある。
降り出す前にレインウェアを羽織ることも考えたが、希望を込めて、もう少し様子を見ることにした。
やや傾斜のきつい坂道を下って行く。すると間もなく道は曲がりくねっていった。
そのまましばらく進む。右手下方に水路のようなものが伸びていた。空の色を反映するその水面は、どこか憂鬱そうな表情をしている。
カーブは左右交互にやって来る。
峠を攻める走り屋さんたちには、垂涎の坂道であろう。ただ、今はここを攻めるのは止めておいて頂きたい。路側帯を歩くワシも攻められかねない。
下るにつれ、カーブの曲がりがきつくなっていった。蛇行する道をどんどん下って行く。
いつ雨が降り出してもおかしくない空模様であったが、まだ堪えている。
進んで行くと、勾配もカーブも緩んできた。
物産館の大きな看板が見えてくる。そしてその先に歩道が現れた。
(これでやっと、安心して歩けそうやな)
人心地ついたような心持ちで歩いて行く。
しかしホッとできたのも束の間であった。
ポツポツと雨が降り出したのである。
ワシは急いでレインウェアを羽織り、ザックにはレインカバーを装着して再び歩き始めた。
因みに、折りたたみ傘は今回の雨装備に入っていない。傘をさすと、歩行動作に支障が出る。ワシには高機能、高価格のレインウェアとシューズという強い味方がいるのであるから、傘など必要ない。
いくつもの細い糸のような雨が、ふわりとアスファルトに着地しては染みてゆく。雨脚はそれほど強くはない。
手ぶらのワシは雨を縫うように進んで行った。
雨情と戯れながらの道行きも悪くはない。心はスキップをしていた。
レインウェアのフード内をさわさわと柔らかい雨の音が包む。
いつもの歩き旅であれば、もう一踏ん張りでゴールといったところであろうが、今日の先はまだまだ長い。
緩い下り坂を利して、勢いよく進んで行く。
風がスッと鼻面を撫でて行った。
(ん………あらっ…)
アスファルトに粒の大きい雨だれが、いくつか弾けるや否や、一気に雨脚が強まった。
(こりゃ、ちいとマズいの…)
前方にトタンの小屋が見えている。その手前にはバスの標識柱があった。小屋はバスの待合所と思われた。
とりあえず、そこへ避難する。ザックを下ろして外を見ると、風雨がどんどん強まっていく。午前中の雨予報不的中の汚名をすすぐかのようである。
(こんな降り方になるとは…ちょっとなめちょったの…)
ワシのレインウェアであるが、レインジャケットとレインパンツが別売りになっているものであった。
各々、相応に値の張る商品である。一度に両方を購入すると、懐にかなりの打撃が生じる。
そこでワシはケチってレインパンツの購入を見送った。少々の雨であれば、今履いている撥水性のあるパンツで凌げると考えたのである。
長椅子に座り、国道を見る。雨のカーテンがそよいでいる。
(お財布にやさしい歩き旅っちゅうんが原則やからのぉ…)
<原則を言い訳に使うな>
屋根をたくさんの雨音が走って行く。
先ずは自分の置かれている現状を考えてみる。
時刻はそろそろ14時になる頃である。まだ半分以上の行程が残っている。雨は激しく降っている。
降りしきる雨の中を歩くことを想像してみる。
ザックはレインカバーがあるので、問題ない。上半身はゴアテックスのレインジャケット、防水透湿で問題ない。下半身、シューズはゴアテックス製品なので問題ない。またミッドカットのシューズなので、路面で弾けた雨粒がソックスを濡らすこともないであろう。しかしパンツは撥水性があるものの、防水性まではない。この雨にはとても太刀打ちできまい。
ただ、パンツの部分はずぶ濡れになったとしても、全身がそうなるわけではない。風邪の心配をするほどのことはないであろう。パンツ自体は洗濯すれば良いだけの話である。
(よし、行くか…ん……)
パンツがびしょ濡れになると、ソックスにも水が染みてくる。そうなると、シューズの中も無事では済まない。
シューズの中に水が染みて、翌日までに乾かなければ、足のトラブルにつながる可能性がある。
(はぁ…)
<よく身から錆の出るお方だ>
しかし、いつまでも雨宿りしているわけにはいかない。
ワシはソックスをビニールで包んで水濡れを防ぐことにした。
(今日は帰られんのじゃ。前進あるのみ!)
厚みを増す雨のカーテンを捌くようにして、ワシは勢いよく通りに飛び込んで行った。
バスの待合所を出てから、そろそろ2時間になる頃であった。ついにソックスが完全に濡れた状態となった。そして、ほどなくシューズの中も水が染みていった。
ビニール袋の一部が破損したものと思われた。
こうなっては仕方がない。善後策を考える。
パンツ等は洗濯で良いが、問題はシューズである。
(内部を水でゆすいで、新聞紙を詰めて水気を取るか…ドライヤーも使おうかの)
とりあえず、対応策は決まった。後は宿泊施設に落ち着いてから実際に対処していくしかない。
(ちいと疲れてきたのぉ…)
おそらく、まだ40キロも歩いてはいない。しかし、それでも歩き旅の自己最長距離は更新しているはずである。
しかも荷物の入った30リットルのザックを背負って来ているのである。
疲労を感じるのも無理はない。
足元からは、シャカシャカ、ジュクジュクといった音や感触が伝わってくる。
(下がるわ~…ゴアテックス、意味ないじゃん)
<レインパンツ、ケチるからじゃ>
最初の歩き旅で雨に降られて同様の経験をしていたはずである。それがあったからこそ、ゴアテックスのシューズを購入したのであった。足元の雨対策は万全のはずだったのである。
今更であるが、どうしてレインパンツをケチってしまったのか、自分でも意味が分からない。
確かにレインパンツの価格は高かった。しかし、出そうと思えば、出せない額ではなかった。
今のワシがレインパンツをケチろうとしているワシの側へ行けたなら、彼の頭をはたいて「馬鹿なの?買っとけ」とツッコミを入れるところである。
ワシは楽しい計画をしていると、物事を都合よく考える嫌いがある。大した雨に降られることはないであろう、といった根拠のない希望的観測に基づいて購入を先送りにしたに違いない。
希望に溢れた計画は、時に実行する者を不幸にする。
疲労と後悔がザックを重く感じさせる。
夕暮れが次第に近づいてくる。
少し前に目にした距離標識には、佐世保までまだ20キロの道程があることを示していた。
(楽しい旅がワシを誘い、厳しい現実がワシを途方に暮れさせる)
<自爆をカッコつけて言うな>
これまでのように、気持ちが折れてお家に帰る、という選択肢は用意されていない。厳しい状況を打開する道は前にしかない。
真っ直ぐな坂道を下って行く。
車道に響く水飛沫の音がワシの聴覚を包む。
坂下に見える風景は雨に煙ってぼんやりしている。
雨のしずくが垂れるフード越しに見えるその情景は、半眼の世界であった。
(もう否も応もない…一歩一歩前へ進むのみじゃ)
<それが歩きに集中するってことじゃ>
瞑想でもするかのように、ワシは黙々と歩き続けるのであった。
片側二車線の通りを進んで行く。宵の口の闇が辺りを包んでいた。通りを挟んだ奥の町が遠くに感じられる。
雨はしとしと降っている。町の灯が白く滲んで見えた。
残りの行程は6キロくらいであろうか。普段のイメージからすると、大した距離ではない。しかし、今はその先のゴールが途轍もなく遠くに感じられた。
(今の私は遠すぎる貴方が…)
<失恋か⁉>
森高千里の「雨」が脳内BGMに流れていた。少し前からそのサビの辺りがリフレインしている。
辛い心情のBGMとしては理解できるが、ゴールへ向けてのラストスパート向きとは思えない。
しかし約50キロ歩いて来ているのである。しかも、パンツ、アンダーパンツ、シューズにソックス、全てがずぶ濡れなのである。ラストスパートをかける気力など、それらと枕を並べて討ち死に状態であった。
今しばらくはBGMに癒されていたかったものと思われる。
BGMに浸りながら、目の前の辛い空間をやり過ごすように前進して行く。
そうしてしばらく進んでいると、沿道の風景が市街地のそれとなっていった。距離だけでなく、通りの雰囲気もゴールが近いことを示している。
雨も小降りになってきていた。
いくぶん息を吹き返したような気持ちになる。連れて、歩調にも少し勢いが戻ってきた。
このままいけば、20時頃にはゴールできそうである。ただ、松浦(まつうら)駅でのリスタートが9時半頃であったことを考えると、予想以上に時間を要している。
しかし、重い荷物、未知の距離、雨等、道中の経緯を考えれば、十分に許容範囲といえるであろう。
後は、できるだけ早くゴールして、泊まるホテルを見つけるだけである。
(洗濯やら何やら、着いてからがまた大変じゃ…)
明日も旅は続くのである。しかも、その行程は70キロ近い。計画した人間を呪いたくなるような行程であるが、事ここに至ってはやるしかない。
ワシは唇を結び直して、佐世保駅へ向けて脚を速めた。
片側三車線の国道を進んで行くと、公園の入口にあるイルミネーションに目を奪われた。少しだけ立ち寄ってみる。公園内にはたくさんの電飾が瞬いていた。
その奥にはアーケード街が国道と平行に伸びている。
(同じ方向の道みたいやし、ゴールもすぐやから、ちょっと楽しんでもええやろう)
<すぐに調子に乗る人だ…>
市街地に入るまでの道程には静かに揺れる淡色の光しかなかったが、ここらは色彩豊かな光に溢れていた。
長崎らしく異国情緒を感じさせるクリスマスイルミネーション、テナントビルの灯、行き交う車のヘッドライト、アーケード街の照明とそこを賑わす商店のネオンサインや看板の光、それらの光が交錯するこの街は万華鏡を思わせた。
多種多様な店が軒を連ねる商店街を歩いて行く。所々にある路地に興味を引かれる。
街歩きを楽しんでいるのであれば、色々探検したいところであるが、さすがに今はそこまで脱線できない。
ずっと孤独な幹線道路沿いの道を歩いて来たので、色んな人が行き交う商店街が華やいで感じられた。
楽し気な雰囲気を味わいながら進んで行くと、少し先に大きな通りが見えてきた。アーケード街は、そのまま国道につながっていたようである。
雨の収まった国道通りを歩いて行く。ゴールはもう直ぐである。
少し先に視線を合わせて進んでいると、脇道から巨人が現れた。
(ガリバーか⁉)
<失礼なことを言うな!>
目を見張るほどに背の高い人間が歩いて来る。米軍関係者と思われる三人連れの一人のようであった。周囲から頭一つではなく、上半身が抜け出ているように見えた。
万華鏡の世界へ踏み入って行く彼の背中を見送りながら、少し佇む。
ここまでの行程が全て遠い夢であったように感じられた。
田平港で見た風景、曲がりくねった山道、雨のバス待合所、下半身ずぶ濡れの坂道、遠くに揺れる静かな町の灯、全ては雨上がりの靄の向こうで現実感を失いつつあった。
(さて、ビジネスホテルにでも腰を落ち着けるか…)
疲れていたが、翌日に向けてやっておかなければならないことが、たくさんある。
気持ちをファンタジックな世界から引き戻すように踵を返す。道行く人を擦り抜けながら、ワシは足早に佐世保駅へ向かうのであった。