九州ツギハギ歩き旅
10.松浦(まつうら)駅~長崎駅
【二日目・三日目】
脚が重い。足裏には既にマメができていた。前日の負債を抱えたまま迎えた朝は、憂鬱である。
(こんなんで、誰が70キロ近い距離を歩けって言うんじゃ⁉)
<お前じゃ…>
前夜はビジネスホテルにチェックインした後、雨で濡れた衣服の洗濯やシューズの処置などに追われた。そして駅前の居酒屋で遅い夕食を済ませて就寝したのが、午前0時前であった。
当初の予定では、今朝の6時には二日目の行程に入ることになっていた。しかし昨夜の段階で、今朝は大事を取って出発予定時刻を2時間程度遅らせることにした。
睡眠不足で長距離歩行に臨むことは避けたかったし、身体のダメージが翌日にどれくらい残っているか、予想もつかなかったからである。
(こうなったら、朝食バイキング、ガッツリ食べちゃる。タダやし)
<伝家の宝刀、ヤケクソ作戦かね…>
今日の目標は長崎駅である。ただ、今朝の足の状態と出発時刻の狂いを考えると、計画の修正が必要になると思われる。
状況をしっかり見極めながら、旅を進めていかなくてはならない。
計画の修正ではなく、計画を断念して逃げ帰りたい、というのが本音であったが、ワシの場合、その選択は九州ツギハギ歩き旅自体の断念を意味することになる。
即ち、逃げるということは「もう勝てない」ということである。勝てなくとも立ち向かう意志を根性という。ワシにはそれがない。つまり一度逃げれば、二度目はないということになるのである。
(逃げるなら、とことん逃げるのがワシじゃ)
<そんな威張り方があるものなのか>
一度、無理な計画で自爆したからといって、全ての計画を台無しにしたくはない。
苦しいのは真っ平ごめんであるが、歩き旅のおかしな魅力には、どうにも抗えないところがある。
それに、衣服の洗濯はもちろん、シューズの処置も上手くいった。旅立ちに際して、悪い話ばかりではない。
ワシはキュッと唇を結び、旅装をザックに詰め直すのであった。
雲はあるが、それなりに良いお天気であった。雨の心配はなさそうである。
今日は国道202号線と、そこからそのまま206号線につながるルートに沿って歩き進める。
ストレッチで脚の疲労感はいくらかマシになっていたが、足取りは今一つ捗らない。原因はハッキリしていた。足裏のマメである。
一歩一歩踏み出す度にジンジンとした痛みが這い上がって来る。
痛みを避けようとして、そろりと足を運ぶと、響くような痛みが波紋のようにじわじわと広がっていく感覚があった。
旅が進まない上に、痛みからも逃れられないのでは話にならない。
今は歩き旅を諦めないことが前提となっている以上、やることは一つであった。
痛みはないことにして普通に歩き始める。
(痛い…)
這い上がって来る感覚に負けないように、少しだけ力強く踏み込んで進む。
(痛くない痛くない)
そうして進んでいると、次第に慣れて痛みを感じなくなる。神経が鈍くなってくるのかも知れない。普通に歩みを進めて行けた。
しかし、赤信号等で足止めを食らうと、元の木阿弥であった。また一から痛みとのコミュニケーションをやり直しつつ歩く。
今日は、こうしたことを繰り返しながら、旅を進めていくことになりそうであった。
(どこまでもつやろ…)
地図で見た限りでは、今日の行程の終盤までルート周辺に鉄道路線はない。途中で計画を断念するとなれば、路線バスを利用することになる。
(バスの運賃、高いやろうな…)
田舎町を通るバスの運行状況も気になるところであった。
行くだけ行って、状況に応じて計画を修正することにしていたが、早い段階での修正となると、交通の便に支障が出そうである。
行くも地獄、止まるも地獄といったところであった。
(いっそ、止まった方がスッキリするかもやな…)
<この流れ、そこは行くとこやろ>
旅は序盤、足の不調、重いザック、このような状況では妥当な判断は望めない。今しばらくは何も考えないことにして、歩みを進めた。
峠越えが始まった。
この山道には歩道があったので、昨日よりは安心して歩けそうである。しかし、前日のダメージが残る身体には、上り坂は厳しい。
重力に応援してもらえるように、身体を少し前傾させて進んで行く。
坂の向こうに見える空では、雲が存在感を主張し始めていた。
所々の雲間から差す薄日が、どことなく頼りない。峠付近から俯瞰できる海も色を失って、ぼんやりとして見えた。
ワシもぼんやりと一息入れたいような気になったが、足裏の状態がそれを許さない。寝た子を起こして、痛みをあやすのは面倒である。
それなりに覚悟していた積もりであったが、痛みと付き合いながら動くことは思いの外、大変なものであった。
(何でも、やってみんにゃホントのところは分からん…)
峠を越え、真っ直ぐに坂道を下って行く。やはり、足裏への衝撃は上りより大きい。少し痛みが顔を覗かせる。
慣れるまで付き合うしかない。歩調は変えずに、そのまま進む。
少し我慢して歩いていると、痛みは微かな違和感に変化し、顔が歪むこともなくなった。
そのまま坂を下って、集落を抜けて行く。
田舎道の風景は単調ではあるが、ホッとするような雰囲気がある。
赤信号に道行きを阻まれ、足裏の痛みとのコミュニケーションをやり直す必要もなかった。
そんな平穏な空間を淡々と進んで行った。そうしてしばらく行った先にある緩やかな坂道を上って行くと、西海橋の袂にある西海橋公園のパーキングに辿り着いた。
(マメとまたやり直しやが、ちょっと寄っとこう)
先を考えると、切りの良いところで息を入れておく方が良いと思われた。
時刻は正午を過ぎたところであった。水分補給をしながら、休憩する。
朝は8時過ぎにホテルをチェックアウトして、二日目の歩き旅に入った。佐世保駅からここまでの道程が20キロちょっとであることを考え合わせると、約5キロペースで進んで来た計算になる。
通常のペースより1キロ遅いが、旅の経緯、身体の状態等を考えると、上々のペースであろう。
(やっぱ、きついのぉ…)
前日、アップダウンのある道程を約55キロ歩き切った翌日である。その疲労は一晩眠ったくらいでは抜けていなかった。
そして、朝から足に不調を抱えたまま二日目の行程に入り、峠越えを含めた約20キロを歩いて来ているのである。疲労がかなり溜まっているのは間違いない。
まだ50キロ近い行程が残っている。計画の修正も視野に入れているが、今のところは予定通り歩き切る積もりでいる。
(今日のペースやと、22時ゴールかぁ…)
見通しはかなり厳しい。
(ここであれこれ気を揉んでもの…)
ワシは立ち上がってザックを背負い直す。
(うわ…)
足裏からジンジンとした痛みが駆け上がって来た。
ワシは大きく息を吐いて唇を結び、いつもと変わらない歩調で歩き出す。足の運びにいくぶん乱れはあったが、構わず西海橋へ向かって行った。
海水の重厚な流れが橋を横切って行く。
(どうせまだ少し痛いんじゃ)
橋の途中で足を止め、欄干から流れを覗く。薄日が照らす潮目が、光の衣をまとって舞を舞っているように見える。吸い込まれそうな美しさと恐ろしさが混在していた。
(こんなとこで、バンジージャンプするってなったら…)
肛門がキュッと締まる感覚と共に、全身の血流に変化が生じる。ビンビン、ジンジンと響く痛みが足裏から駆け上って来た。
(しもうた…余計なことを…)
<やっぱり、バカなの>
タイムリーに、考えてはいけないことを考えてしまう。ワシには、そんなところがあった。難儀な人間である。
ワシは乱れそうになる足運びを律しながら、その場を後にした。
(みかん畑かな…)
その上を町内放送が流れてきた。牧歌的なオレンジ色の音声が揺れる。
昼下がりの田舎町は、どこか温かで微睡を誘う。
そこを通る国道の曲がりくねった坂道を、ワシは下って行く。背負ったザックには旅装と疲労が詰まっていた。
坂を下り切った先には海沿いに平坦な道が伸びている。ガードレールのすぐ横は海であった。
そのまましばらく進んでいると、小さな船着き場の先にバス停があった。その標識柱の側には長椅子のベンチが置かれている。
(少し休もう…)
西海橋のパーキングでの休憩から、それほど間が空いているわけではなかったが、いくらかでも身体の重さをリセットしたかったのである。
ザックを投げ出すように、ベンチの端へ置く。脚はベンチの外へ投げ出して仰向けに寝る。
車の通りが途絶えると、穏やかな波音が耳元に寄せては返す。
青空も雲も光を蓄えているが、どこかグレーがかった印象である。
しばし目を閉じる。
(目を開けたら、ドッキリ悪夢でしたってことにならんかな…)
<なりません>
トンビの鳴き声が遠くの空で尾を引いている。
「とりま松浦作戦」の悲劇が思い出された。のどかなSEも今のワシには警告音でしかない。
悪夢の記憶がワシを悪夢の現実へ引き戻す。
(いつか、撃ち落としちゃる)
<いやいや、寧ろ感謝しろ>
時が止まったような束の間の休息であったが、現実の時は進み、ワシの旅は進んでいない。
復活した足裏の痛みに呻きつつ、ワシは旅路へ復帰するのであった。
いくつかの峠を乗り越え、ワシは暮れなずむ通りを下って行く。
心身共に疲れたその目で、薄まっていく空の茜色を名残惜しげに見ていた。
すると突然、右足の拇趾と示趾の付け根辺りに嫌な感覚と痛みが走った。
(やっちまったな…)
国道を挟んだ向かいにコンビニがあった。
(あそこで応急処置をしょうかの)
こんなときに限って、行き交う車が途切れない。
しばらく待った後、横断しようと視線をコンビニに戻す。店舗の駐車場から出ようとしている車がいた。
ウィンカーが出ていない。とりあえず先を譲ろうと考えて、目顔でその意思を伝える。しかし何の反応も見せない。
夕暮れの光の中では、車内の様子が分からない。
どうしたものか、と考えていると、再び車が行き交い始めた。
仕方なく辺りを見回すと、直ぐ近くに「売家」の立て札が立てられた家屋があった。その玄関先には腰を下ろせそうな段差がある。
(こっちでええわ)
足を引きずりながらそこへ行き、腰を下ろそうとしたところ、後方から急発進する車の音が聞こえてきた。
先程の車が国道を横切り、ワシがいた場所の後ろにある建物に突っ込んで行ったのである。
(自爆テロか⁉)
国道を挟んで、にらめっこをしていたとき、ワシの横には十分なスペースがあった。
訝しく思いながら、破裂したマメの処置を済ませる。そして再び歩き始めようと立ち上がったのであるが、少し気になって、先程の車が入って行った建物を確認することにした。
(なるほど…)
旅路へ復帰したワシは、さっきの出来事について考えていた。
車と旅人のにらめっこの構図をお天道様目線で見るとどうなるか。そこにあった客観的事実を並べてみる。
コンビニがある。
車がその駐車場出口にいた。
ワシはその店舗を見る形で、道路を挟んだ向かいの歩道に立っていた。
ワシの背後にあった建物はラブホテルであった。
愛し合う二人の行く手を阻む意味不明な旅人、そんな構図が見えてきた。
俯瞰してみると、人間は知らないうちに、信じられない役回りを演じさせられていることがあるようである。
まったく理不尽な話である。
心の痛みと引き換えに、足裏の痛みには慣れてきた。
通りはセピア色に包まれている。間もなく日暮れとなるであろう。
長崎駅までは、25キロ近い行程が残されている。疲労に足の痛みといった、悲観的な状況も立ちはだかっている。しかし、それでも何とかここまで来たのである。気持ちだけは前に向けて、ワシは歩き続けた。
すっかり日は暮れた。
道路照明越しに見える漁港には、硯にすり出された墨汁のような海が横たわり、主のいない漁船を静かに抱いている。
長崎駅まで、依然、20キロ近い行程が残っていた。
スタート予定時刻を変更したことにより、出発当初から計画修正を想定していたとはいえ、それだけの行程を残すわけにはいかない。
今朝のスタート時間の遅れは2時間であった。いつもの歩き旅が平均時速6キロのペースで進められていることから考えると、区切りは残り12キロ地点を目安に考えることになろう。今はまだ区切りを考える段階ではない。
それに、この辺りは鉄道路線が通っていない上、バスの姿もたまにしか見かけない。
区切りをつけようにも、そのための選択肢も乏しいのである。
(ヒッチハイクでもしようか)
<そんな気力があるなら、前へ進め>
交差する車のヘッドライト、時折訪れる薄暗い静寂、そんなサイクルが繰り返される単調な空間が続いている。
こうした空間には何となく重苦しい雰囲気が漂う。
その重苦しさに圧迫され続けていると、確実に気力が削られていく。
そして疲労も確実に蓄積されてきている。マメの状態は悪化することはあっても、良くなることはないであろう。それらに加えて、脚部にも痛みに近い違和感が出るようになっていた。
しかし、今は如何ともし難い。
辛い空間をやり過ごすように、ただただ黙々と進んで行くのであった。
LEDライトを片手に曲がりくねった道を行く。
数メートル先の地面に視線を落としながら、身の安全のみに意識を払う。
こうして流れる空間は意識のトンネルを進んでいるような心持ちにさせる。
そこは瞑想しているように自分とのみ向き合う空間である。外部からのネガティブな刺激は届かず、心がざわめくことはない。
そんな空間に守られて、ワシは挫けそうになる自分を挑戦の舞台へ立ち続けさせた。
そうして暗闇に包まれた通りを歩き続けていると、長い下り坂の向こうに街の灯が見えてきた。
迷い道から抜け出て、ようやく人心地ついたような気がした。
つい、勢い込んで坂道を下り始める。下り坂の衝撃が脚に波打つ。その痛みにワシはバランスを崩して左右にふらついた。
少し前から上り坂を進むより下り坂を進む方が、辛く感じられるようになっていた。脚に限界がくるのも、そう遠いことではなさそうである。
長崎駅まで、まだ15キロ近い行程が残っているが、そろそろこの日の行程に区切りをつけるタイミングのように感じた。
(どっかで、ちょうどええバスがあったら、そこで区切ろうかの)
脚への衝撃に気を配りながら、長い坂道を下って行く。
町に着くと、坂の上から見た街の灯が、郊外型大規模店舗のものであったことが分かった。
広い敷地に大きな店舗、広い駐車場、明るい照明、郊外ではよく目にする風景であった。
日中であれば、相応の賑わいもあるのであろうが、そろそろ閉店となる時刻なのであろう。広い敷地には人影もなく、明る過ぎる照明だけが空間を冷たく照らしていた。
片側二車線の広い通りを歩いて行く。通りはライトがなくても困らない程度に明るかった。
(ん…バス停で時刻表を確認するのを忘れとった)
<忘れるくらいなら、ゴールまで歩きたまえ>
気づいて、いくらか進んで行くと、バス停が見えてきた。
近づきながら、スマホで時刻を確認する。
(20時32分…)
バス停の時刻表を見る。
(次は……20時32分じゃ!)
大きく息を吐いてバス停に佇む。
(やっぱ、ワシは行いがええんじゃ)
<ただの偶然じゃ>
程なくやって来たバスに乗り込む。二人掛け席の窓側に座った。
車窓から外をぼんやり眺めながら、バスに揺られる。
明るい車内から見る風景は、影の輪郭だけがぼやけて浮かんでいる。そこにどんな風景が流れているのか判然としない。
(ここいらが、補習ステージじゃな)
どこからか、欠伸とともに漏れる息の音が聞こえてきた。
すっと気持ちが緩んでいく。
(明日のことは、後で飲みながら考えようかの)
ここまでのことを思い起こすように目を閉じる。
今日という一日がとても遠くに感じられた。
静かな車内に響くバスのエンジン音を聞きながら、ワシは長崎駅へ向かうのであった。
不都合な予報はよく当たるものである。ビジネスホテルの窓から見る長崎の街は、雨に濡れていた。
(長崎は、今日も雨だった…)
<朝から前川清か⁉>
午前7時を過ぎたところである。今日も予定より遅い朝を迎えていた。
昨夜、長崎駅のバスターミナルに降り立ったのは21時過ぎであったが、ビジネスホテルに腰を落ち着けた頃には、既に22時を回っていた。
土曜の夜、長崎駅周辺は満室のホテルが多かった。
脚を引きずりながら、いくつかのホテルを回った後、ネットで調べたホテルに電話をかけまくって、ようやく宿泊先が決まったのであった。
それから、洗濯や食事といった初日と同様の過程を辿って、日付が変わった頃に就寝ということになったのである。
今朝は9時頃にホテルをチェックアウトし、その後、駅前のバスターミナルから路線バスに乗って、昨夜のバス停へ向かう積もりであった。
昨日までの二日間でワシは約110キロの行程を歩いたが、二日目の行程を約10キロ残している。
(泊り旅前のワシのことを考えれば、上々やろ)
<お前が偉そうに言うな>
残った行程を今日つなぐことは決まっているのであるが、その後をどうするか、決め兼ねていた。
ワシは今回の旅のために休日を4日取っていた。
木曜日の仕事終わりに博多(はかた)まで行って前泊し、金曜、土曜で長崎県を縦断する。
その計画に問題が生じなければ、日曜日に長崎駅から先の「ツギハギ歩き旅」に入る積もりだったのである。
元々、問題があった場合の予備日なのであるから、昨日の残りの行程を消化することは当然のことであった。
ただ、スタート時間も、残りの行程も、どちらも微妙に中途半端なのである。
9時チェックアウト、バス移動、行程消化であれば、だいたいお昼頃には改めて長崎駅にゴールできる。
そうすると、日曜日独自の計画のスタート時間が、お昼以降ということになるのである。
キャンバスが小さければ、描ける画も小さくなる。
そこへもって、前日までに受けた身体のダメージは回復しきれていない。
新たな歩き旅のステージへ進むには、あまり良い条件とは言えなかった。
(先ずは補習ステージをクリアする。それからのことは、それからじゃ)
しっとりとくすんだ街が、ワシを見上げている。日曜日の早朝、行き交う車も人も多くはない。
とりあえず、腹が減っては戦ができぬ。その日の一歩を踏み出すべく、ワシは着替えを済ませ、朝食会場へ向かうのであった。
吊り革につかまってバスに揺られながら、雨の様子を窺う。車窓で弾ける雨粒の音が、雨の強さを物語っている。
今日は、佐世保(させぼ)駅へ向かう道中の作業着屋で購入したレインパンツも履いている。雨対策に抜かりはない。
ただ、足の状態には不安がないわけではなかった。
昨日の夜、バスから降り立つと、足には様々な痛みの重奏が響いていた。その痛みの不協和音で、千鳥足になりかけたほどであった。
一晩寝てある程度は回復していたが、万全と言える状態には程遠い。
補習ステージは10キロと少しといったところなので、クリア自体は問題ない。ただ、その後のこともある。怪我につながらないように十分に注意して臨まなければならない。
そうこう考えている内に、昨夜のバス停に到着した。
通りに降り立つと、雨は更に強まっていった。
(思いやりの欠片もない天気じゃのぉ)
<日頃の行いじゃないかな>
街場を通る国道に沿って、長崎駅へ向かう。
今日は足裏のマメの痛みに加え、脚部の筋肉痛とも付き合わなければはならない。しかし、脚に負担をかけないよう柔らかく歩を進めると、足裏に響く痛みが、波紋のように広がっていく。
昨日と同様にマメとも折り合いをつけながら、脚への衝撃を抑える歩調を探りつつ足を運んで行く。
昨夜、バスに乗っていたときには気付かなかったが、通り沿いには様々な施設や店舗、大学などが立ち並んでいた。その中には長崎の観光名所である平和公園もあった。
そこは、昔、修学旅行で訪れた場所でもある。
まだ子どもであったワシにとって、戦争はただの歴史上の事実に過ぎなかった。天を指す有名な平和記念像を目にしても、心が動くことはなかった。
観光旅行ではないので、今回は入園しなかったが、その辺りに原爆が投下されたという事実を思うと、何とも言えぬ思いがこみあげてきた。
季節外れの蝉しぐれが、心に木霊してくる。
昭和20年8月9日―。
お昼へ向かい始めた長崎の空気は、穏やかな佇まいであった。
綿雲の切れ間からは、柔らかい薄日が差している。
街には、食料や日用品を買い求める人々が行き交う。
夏休み、野山や川、空き地では、小さい子どもたちが無邪気に遊んでいる。
大きいお兄ちゃんやお姉ちゃんは、動員されて、学校や工場で働いていた。
苦しい戦局が世の中に影を落としていたが、人々は慎ましい日常を笑顔で過ごしていた。今日という一日と明日という未来を一つ一つ紡いでいたのであった。
「また明日、一緒に遊ぼうね」
約束は一閃の光の中へ消えていった。
この世が地獄となった。
人間はそんなことをする生き物なのだー平和公園が、そう語りかけているような気がした。
ワシは「戦争を知らない子供」として生まれた。そして、「平和ボケ」と揶揄される日本で育った。そんなワシであっても、その語りかけを決して忘れまい、と思った。
容赦のない雨粒がレインウェアを打つ。
長崎縦断歩き旅、ヘタレなワシにとっては無茶苦茶な旅であった。身体のあちこちから、様々な苦情が聞こえてきている。
そうした声に苛まれながらも、ワシは昨日の道を今日につないでゆく。
(忘れんことが、戦争を許さんことじゃ)
陳腐な命題が確信に変わった。
修学旅行以来の懐かしい出会いに、ワシは少しだけ「おとな」になって歩きはじめる。この旅の全てが、ここで報われたような心持ちであった。
何か吹っ切れたような表情を浮かべ、痛みを忘れてしまっているかのような足取りで、ワシは長崎駅に向けて歩き続けた。
駅前は正午を迎えようとしていた。
雨はその足取りを変えながら、粛々と降り続いている。
ふと、国道を挟んだ向かいの角にあるおでん屋に目が留まった。
昨日の夜、宿泊先を探し回っていたときに、そのおでん屋の前を通ったことが思い出された。
入口はすりガラスの引き戸で、中は見えなかったが、仄暗い灯が漏れていた。
すりガラスに「おでん」と書かれ、看板には「昭和6年創業」とあった。
そのときは、シングル宿泊料金16,800円のホテルにショックを受け、宿泊を断念した直後であったので、特に何も思わなかった。
(あの戦争の前からやってたんやな)
あの人災をどのようにして乗り越えてきたのか、ワシには分からない。ただ、ずっと営業が続いていることは事実であろう。
昨夜の仄暗い灯の記憶が、温もりを帯びてきた。
国道に架かる陸橋の階段を上って行く。降りしきる雨にかすむ長崎駅の時計が、正午過ぎを指していた。
雨宿りをしている駅前のクリスマスツリーが、曇天を静かに見つめている。そのささやかな電飾は天へ舞い立つ蛍のように見えた。
ワシは少しだけ立ち止まり、眼下を行き交う車や路面電車の流れを眺める。
ふと、家族に会いたくなった。
(今回はここまでで、ええんやないかの)
<ええんやないか>
心を決めて、我に返ると、下半身から不快感がよじ登って来た。
旅の途中で調達した普通のレインパンツの中は、汗蒸れでかなり湿っていたのである。
(おしっこ漏らしたみたいやん…)
<熱帯雨林へ、ようこそって感じだね>
最後の最後までケチのつく旅である。
(まあええ、宿泊代が一回分浮くけえ、今日は特急で帰ろっと)
<調子に乗るんじゃない>
また雨脚が強まってきた。雨だれがあちこちでスキップしている。
ワシは駅舎へ向けて歩き出した。
駅周辺の生活音が、どこかこもった感じで響いてくる。肩に感じる疲労が、不思議と心地良い。
(帰りの電車、もしかすると眠れるかも知れんな)
駅へ向かう傘の間を縫うように抜け、ワシの背中はザックと共にエントランスへと吸い込まれて行った。
九州ツギハギ歩き旅・長崎編・完